Archive for 2019

慰めの言葉。

2019.8.18

上手い言葉が見つからないが、受け手と送り手で「言っていい言葉」は変わる。
例えば、何かを渡すときに約束の日から遅れてしまった場合、どんな理由があっても「仕方がないっすね」と慰めの言葉を言えるのは、受け手側だ。
これを送り手側が「仕方がなかった」と言えば、開き直りと捉えられても仕方がないだろう。
一方で、送ったものを無駄にしてしまった場合、「仕方がないっすね」と言えるのは、送り手側だ。
これもまた、無駄にしてしまった受け手側が「仕方がなかった」と言えば、開き直りになるだろう。
 
世の中は、同じ言葉でも「言っていい言葉」かどうかは、その状況で変わる。
特に「仕方がなかった」という言葉は、物分かりの良さが醸し出される分、言っている方は気持ちがいいし、逆にそのような状況で相手に詰め寄れば、利己的な愚者に映り、その場は良くても関係性は終わるだろう。
だから、「仕方がなかったね」と言われる方は、この言葉に慣れてはいけない。
「仕方がなかったね」と言っている裏には、「次は同じことはやらないでね」という意味が込められている。
これを読み取らずに、二度三度と同じことを繰り返すと、これもまた関係性を壊すことになる。
関係性を壊す立場が変わるだけで、やはり、「仕方がなかった」ということを、どうやって減らしていくかが、経験値を積むということなのだろう。
 
慰めの言葉をかけられたとき、安堵するのか、悔しい気持ちになるのか、それはもうその人次第なんだけどね。

潜在的な課題原因を聞き出す。

2019.8.17

専門家との関わり方がわからない場合、医者と患者の関係だと思えばいい。
治療でも予防診療でも、医師の診察に対して「あーだこーだ」言えば、医師から「他所に行って」と言われるのがオチだ。
診察代を払ってから、他所に行くだけだ。
治療を受けなくても、診察を受けたら診察のための料金を支払い、他所に行くだけだ(わざわざ書いているのは、医師と患者の関係に喩えているため)。
 
職業倫理というのは、ヒポクラテスの誓いがはじまりとも言われ、専門家と依頼人には知見に大きな隔たりがあることが、職業倫理を働かせる理由となる。
だから、専門家は依頼人にとって不利益になることはしないし、依頼人にとって利益になることしかしないという職業倫理を働かせている。
そのため、患者が文句を言う前に、医師の診察は患者の利益になるものだけだ。
それにも関わらず文句を言えば、「他所に行って」と医師から言われても仕方がないことだろう。

これは医師だけでなく、デザインでも同じだ。
依頼人が「あーだこーだ」言えば、クオリティは下がるものであり、あまりに酷ければ「他所に行って」となる。
これはデザインだけでなく、なんでもそうだ。
飲食店でも、建築事務所でも、クリーニング屋でもなんでも同じだろう。
 
依頼人の欲望を叶えることが仕事なのではなく、依頼人の課題を治療し、予防診療をし、より良い将来をつくることが我々の仕事なのだ。
これを「依頼人の欲望を叶えること」だと勘違いしている人が多い。
お客様は神様ではなく、課題を抱えた患者だ。
 
これを間違えて事業を行うと、価格競争の戦略をとりやすい。
価格競争を「戦略」なんて言っていいのかは疑問だが、本を読んでいて価格競争によって利益を得ることを、「Last man Standing利益」と呼ばれるのを知った。
なるほど、上手い言い方だ。
こういう競争はジリ貧の争いになり、勝者になっても、安い価格に慣れてしまったユーザーを相手にしている以上、値上げができなくなる。
残った勝者が値上げをすれば、それより安い挑戦者が登場する。
そして、勝者は他の戦略をする体力もなければ、クリエイティビティもない。
つまり、勝者になっても、いつかは負けるのだ。
これが現状の日本および、日本企業の姿だ。
 
依頼人が抱えている課題に対して治療をしたり、同じような課題が起きないように予防診療を提案するのは、専門家だからできること。
依頼人と議論をしても無駄なのは、依頼人と専門家の間の能力差に、大きな隔たりがあるからだ。
そのため大事なのは議論ではなく、聞き出すこと。
潜在的な課題原因を聞き出すための話し合いが、依頼人と専門家の間に必要なことだ。

7割の失敗。

2019.8.16

クライアントと事務所の普遍的なギャップに気づいた。
ぼくらは「打率」を上げようとするけれど、クライアントは「10割安打、あわよくばホームラン」を狙っている。
どんなに思慮深いクライアントでも、根っこのところでは「10割」を狙っている。
7割の失敗は成功ということに、気づいていないことは多い。
「ビジネスと野球の打率は違う」と言うのは、実は墓穴を掘っていて、ピッチャーの投げる範囲とバッターの選択の範囲の差と、ビジネスの顧客の範囲と顧客に売る商品やサービスの範囲の差で言えば、ビジネスの範囲の差の方が大きい。
大雑把な見方になってしまうが、ビジネスの範囲の方が打率は下がるので、7割の失敗どころではなくなる。
ちょっと身内贔屓になっているが、もちろん、事務所の人間でも「打率」の考え方をしたことがない人は多い。
そういう事務所は無理が多い。
薄利多売で引き受ける事務所はまさにそれだし、設備投資をしない事務所も打率を上げようと考えていない。
送りバントでチャンスを広げたり、犠牲フライで点数を稼ぐことだってできる。
これは経営でも同じだ。
ペナントレースを最終的に首位で通過することも、日本シリーズで優勝することを狙って、年間の勝率を考えて戦略を組んだり、チームを強化するのに、どれくらいの年数が必要なのか、助っ人が必要なのか考えているだろう。
これらは全部、「打率」を上げることと言える。
「どんなに投資をしてうまくいったとしても、7割は失敗する」ということをわかるのは、とても強い。
ビジネスの才覚があると世間から言われている人たちは、言葉を変えながら「打率」について話している。
「失敗を恐るな」も、こういうことを言いたいのかもしれない。

ばあちゃんから習う。

2019.8.15

昨日の内容でもそうなのだが、ぼくは「恩送り」というのが好きらしい。
行為としても、言葉としても、好きなのだろう。
昨日は「あげる」と「もらう」についての話だったが、勘違いしやすいのは、こういう話をすると「見返りを求める人」と思われることだ。
けれど、そう思う人のことも、わかるようになったので気にしないようにしている。
 
見返りを求める気持ちが、少なからず自分にもあることは知っている。
それでも、はじめから見返りを求めると、つまらない言動になるのを知っているから、気が向いたまま、お節介を働くことにしている。
何かを提案するというのは、お節介をしてあげていると思えばいい。
そうすれば、提案を退けられたとしてもムキにならず、「あっそ」と気にしないでいられる。
すると、お節介を働くことが当たり前となり、いつの間にか「あげる」が当たり前となっている。
 
これに気づいたとき、ぼくは自分のばあちゃんを思い出した。
ばあちゃんは色んなことをしてくれた。
ご飯を作ってくれたり、毛糸で編み物をしてくれたり、麦茶をコップに入れて冷蔵庫で冷やしてくれたり。
細々したこともあげたらキリがないほど、いろいろなことをしてくれた。
だからと言って、過干渉ということではなく、自分の仕事を黙々とやる人だった。
やりたいことだったのかどうかはわからないが、いつも何かしらをやっていて、疲れたら昼寝をする。
ぼくの好きそうなテレビ番組がやっていると呼んでくれる、そういう人だ。
 
今でこそ、こういうことは、その人が大事じゃないとできないというのがわかるが、子どもというのは、これがわからず、拒否することがある。
そんなとき、ばあちゃんは「あっそ」という感じで、それ以上勧めてこないのだ。
 
ここまで書いて思い出したことがある。
母もそうだ。
母の場合は、「親だから言ってもいいことがある」という理論で説教をしたり、言うことを聞かせようという傾向があったが、大したことでない場合は、「あっそ」という感じで、拒むことを受け入れていた。
残念ながら、母はちょくちょく立場を持ち出してしまっていたので、こういう話のときは、ぼくの中では、ばあちゃんの方に軍配が上がる。
立場で言うことを聞かせようとする傾向は、父は絶対、母はときどきだった。
だから、父と母には悪いけれど、今日の話の主役は、ばあちゃんに譲ってほしい。
 
話を戻すと、この年齢になった今だからわかる。
やさしい人とは、ばあちゃんのような人のことだ。
お節介を働かせるのが怖いとき、ぼくはばあちゃんを思い出し、ちょっとだけ勇気をもらって、お節介をあげている。

「もらう」に慣れない方がいい。

2019.8.14

ひとつ気がついたことがある。
人によっては傷つくことになる内容だから、気をつけて言葉を選ばなきゃいけない。
まぁ、こういうことだ。
 
「もらうことに慣れると、結果的に自分の首を絞めることになる」
 
「あげる」も「もらう」も、一人きりではできないことであり、二人以上の人間関係になる。
この人間関係で「もらう」に慣れてしまうと、もらうことに慣れてしまった人は、一人では何もできなくなる。
ちょっと優しく言ってみても、その人間関係において「あげる」側になったことがないと、他の人間関係で「あげる」人になることは難しい。
「もらう」は基本的に、もらう人のためにあるからだ。
けれども、どんな人間関係においても、「あげる」を続ける理由はどこにもないのだ。
それは、親子関係においてもだ。
成人した子どもを、いつまでも家に置いてあげて、家事をしてあげる、育ててあげる理由はない。
密接な人間関係である親子関係でもそうなのだから、他人同士の関係ではなおさらだろう。
けれど、公平性を求めたら、気持ち悪い関係になっていく。
だから、通常の人間関係では、「あげる」と「もらう」は曖昧に行われているはずだ。
 
労力やお金をあげる代わりに、楽しませてもらう。
できないことをやってもらう代わりに、他のことをやってあげる。
以前奢ってもらったから、今回は奢ってあげる。
こういうことは当の本人に返さなくても、誰かに貢献する「恩送り」という方法もある。
 
恩返しや恩送りをいつもしないでいると、人にコンタクトを取るときは、自分が困っているときでしかなかったりするが、そういう人はお金をあげる「お客さん」という関係にならないと、関係性は壊れる。
今はメールとかメッセージアプリがあるから、相手のコンタクトをとってくる内容の傾向がわかる。
卒業した学友でも、相談事しかコンタクトを取ってこないとか。
それとも、「飲みに行こうぜー」や「遊びに行こうぜー」なのか。
相談事やお願い事のように、もらうことしか考えていない人は、やっぱり、人生が上手く回っていないんだよな。
本人に悪気がなくても、もらう傾向になってしまっているのだ。
仕事関係でも、何かを教えてあげている人の方が、相手から直接返されなくても、なぜか全体的に上手く仕事が回っている。
あげることをしてきた人は、やっぱり、相談でも依頼でも、頼られるもんね。
こういう積み重ねが、結果として現れる年齢なんだろうね。