ばあちゃんから習う。

2019.8.15心の健康, 日々のこと

昨日の内容でもそうなのだが、ぼくは「恩送り」というのが好きらしい。
行為としても、言葉としても、好きなのだろう。
昨日は「あげる」と「もらう」についての話だったが、勘違いしやすいのは、こういう話をすると「見返りを求める人」と思われることだ。
けれど、そう思う人のことも、わかるようになったので気にしないようにしている。
 
見返りを求める気持ちが、少なからず自分にもあることは知っている。
それでも、はじめから見返りを求めると、つまらない言動になるのを知っているから、気が向いたまま、お節介を働くことにしている。
何かを提案するというのは、お節介をしてあげていると思えばいい。
そうすれば、提案を退けられたとしてもムキにならず、「あっそ」と気にしないでいられる。
すると、お節介を働くことが当たり前となり、いつの間にか「あげる」が当たり前となっている。
 
これに気づいたとき、ぼくは自分のばあちゃんを思い出した。
ばあちゃんは色んなことをしてくれた。
ご飯を作ってくれたり、毛糸で編み物をしてくれたり、麦茶をコップに入れて冷蔵庫で冷やしてくれたり。
細々したこともあげたらキリがないほど、いろいろなことをしてくれた。
だからと言って、過干渉ということではなく、自分の仕事を黙々とやる人だった。
やりたいことだったのかどうかはわからないが、いつも何かしらをやっていて、疲れたら昼寝をする。
ぼくの好きそうなテレビ番組がやっていると呼んでくれる、そういう人だ。
 
今でこそ、こういうことは、その人が大事じゃないとできないというのがわかるが、子どもというのは、これがわからず、拒否することがある。
そんなとき、ばあちゃんは「あっそ」という感じで、それ以上勧めてこないのだ。
 
ここまで書いて思い出したことがある。
母もそうだ。
母の場合は、「親だから言ってもいいことがある」という理論で説教をしたり、言うことを聞かせようという傾向があったが、大したことでない場合は、「あっそ」という感じで、拒むことを受け入れていた。
残念ながら、母はちょくちょく立場を持ち出してしまっていたので、こういう話のときは、ぼくの中では、ばあちゃんの方に軍配が上がる。
立場で言うことを聞かせようとする傾向は、父は絶対、母はときどきだった。
だから、父と母には悪いけれど、今日の話の主役は、ばあちゃんに譲ってほしい。
 
話を戻すと、この年齢になった今だからわかる。
やさしい人とは、ばあちゃんのような人のことだ。
お節介を働かせるのが怖いとき、ぼくはばあちゃんを思い出し、ちょっとだけ勇気をもらって、お節介をあげている。

Comments are closed.