Archive for 2019

協力できることは。

2019.10.1

おもろいを考えるというのは、自分も喜んで、関係者も喜んで、お客さんや周囲の人も喜んで、を考えることだ。
一言で言っちゃうと「三方よし」なんだけどさ、いつも一言で考えてしまうと、ちょっとしたおまけなんだけど、実は後々すごく大事になることなんかが、抜け落ちたりするわけだ。
三方よしの概念は、日本では戦国から江戸時代にかけての近江商人が起源と言われているが、ぼく自身はいつから、この概念を考えるようになったのだろうか。
 
というのも、三方よしという言葉を知る前に、冒頭のことは考えていた。
写真家として名前が売れてくる一方で、すり減っていく自分や周囲、さらには社会に対して、何かがおかしいと気づき始めたときには、「どうにかしなきゃいけない」という思いがあったはずだ。
キャリアアップ、スケールアップしているはずなのに、何も得ていない。
それをどうにかしようと、さらに力を求めた。
考える力、ものづくりの力、稼ぐ力、無駄に衝突しない力などなど。
人間的に丸くなりながら、クリエイターとしての成長をしてきた。
事務所勤務時代の怒鳴り散らす社長や、生産性の低い環境を変えようと、再独立をした。
 
そして今、依頼人から感謝をされたり、それほどの不自由を感じない生活環境となり、クリエイターとして円熟味が増してきたと、自分なりに感じる。
自分に才能があるかどうかは分からないが、考え続けながら、作り続けた結果なんだと思う。
休まず、動いてきた。
そして、考える内容が、冒頭の「自分も、関係者も、お客さんや周囲の人も喜ぶこと」だったのだ。
アートでも、デザインでも、ビジネスでも同じなんだ。
「ぼくに協力できることがあるのか」
これなんだ。

喜ばれたら、得るものがある。

2019.9.30

世の中には「ファン」という存在がいる。
スポーツチームのファン、ミュージシャンのファン、漫画のファン、シェフのファンなど、すべてのジャンルにファンという存在がいて、ファンの人たちが彼らの収益を支えている。
宗教だって、信者は信仰対象のファンと呼べるかもしれないし、信者によって支えられているという意味では、信者はファンと言える。
MacやiPhoneを売っているAppleだって、今は死後になっている「マカー」というファンによって、長く支えられてきた。
そういう意味でも、人が食っていくために、ファンは欠かせないのだ。
 
けれど、ファンがいても食えないジャンルがある。
それが日本の「アート」だ。
ぼくも長いこと写真家としてアートの業界にいて、当時としては名の知れた若手の一人だったから、「ファンのような人」がいた。
展示があれば来てくれるし、HPのブログもチェックしてくれたり、展示会場で会えば、とても驚き、恐縮してくれる。
けれど、その人たちが、ぼくらの収益を支えてくれていたかといったら、まったくそんなことはなく、活動を続ければ続けるほど、ぼくらはすり減って苦しくなるのだ。
美術館で展示をしたり、海外で展示をしても、この苦しさは一向に変わらない。
 
アートで作品を購入する人のことは、コレクターと呼ばれる。
コレクターはファンであるときもあるが、若いアーティストの作品を買って、その後、価値が上がったときに売るという投機目的で購入する人も大多数いる。
ぼくもコレクターから作品を購入されていたが、それでも苦しさは変わらないのだ。
 
その後、ぼくはデザインも手がけるようになって、依頼によってお金を得るようになった。
収益を支えてくれるという意味ではファンと同じだが、ファンと言うよりも、家族のようだったり、友達のようだと言った方が、近いような気がしている。
本当に、二人三脚とはこういうことだと知るようになった。
依頼仕事で写真が必要になって、ぼくが撮った方がいいものなら、ぼくが撮影しているし、依頼人がいるからと言って、デザインとアートが違うスタンスかと言われたら、むしろ同じスタンスで作っている。
 
というのも、ぼく自身のわがままで作品を作ったことなんて、大学時代の数回しかないからね。
写真家でしかなかったときも、世の中に必要となるもの(そう思えるもの)を作っていたし、たとえ依頼でも、作る必要のないものを作ることはしない。
依頼仕事であろうとなかろうと、その点は同じなのだ。
そして、感謝をされたり、喜ばれたりする点も一緒なのだ。
違うのは、喜ばれると収益があったり、他の仕事につながったりすることだ。
これって、社会生活の基本なんだよな。

集中力の質。

2019.9.29

「ジャンプ+」という漫画アプリの『左ききのエレン』で出てくる「集中力の話」が、ぼくはとても好きです。
実際にそういう説があるのかは知りませんが、集中力について三つの構造に分けて説明しています。
一つ目は、集中するまでの速度。
二つ目は、集中の持続時間。
三つ目は、集中の深さ。
 
この三つを掛け合わせたものが、その人の集中力の質になるという説なんですが、言われてみると「なるほど」と思います。
おそらく、ぼくは「早く、短く、深く」です。
この状態になったら、人の話はおろか、周りの状況は見えていないです。
だから、普段は集中するとき、集中の深度をコントロールしています。
深度を浅くすることで、集中する継続時間を長くしたり、周囲がコミュニケーションをとれる雰囲気にしています。
それでも、「話しかけちゃまずい感じ」がするようなので、もしかしたらうまくいっていないのかもしれませんが。
 
基本的に、ぼくの集中力の持続時間は短いのです。
それが分かっているから、毎日色々な仕事を入れ込んで、テンポよく切り替えています。
一つの案件を長時間かけて完成まで取り組むのではなく、ある程度区切りがいいところで、別の案件に切り替えます。
そうやっていくつかの案件を渡り歩くと、音楽アルバムの全曲リピートのように、最初の曲である元の案件に戻ってくるので、また区切りがいいところまで進めます。
この繰り返しです。
これは、過去に、仕事をしながら自分の集中力がどういうものか分かり、このやり方が自分にとっては、今のところのベストだと行き着いたわけです。
だから、他の人は違うやり方があっているかもしれません。
でも、そのための最初の一歩が、自分の集中力の質を把握するってことです。

遊んでもらうという感覚。

2019.9.28

自分より年下の人と遊んでもらうのは、とてもいい。
ひと回り、ふた回り離れていると、その世代の感覚を学ぶことができる。
仕事で関わると、どうしても、経験を積んでいる年上の方が、得意になりがちだ。
専門的スキルの勝負をすれば、30代後半から40代が、油も乗った強さを発揮する。
 
しかし、どんなに優れたプロフェッショナルでも、50代以降になると精密さは欠けてしまう。
そして、何もしなければ、年を重ねるにつれて、老害のような古臭い価値観に支配される。
たとえば、いま「持続可能性のある社会」をわざわざ宣伝しているのは、過去にCSRやCI(コーポレートアイデンティティ)、メセナ活動を事業の一環にした企業だったりする。
けれども、もっと若い人たちからすると、宣伝などする必要もないほど、「当たり前」なことだ。
むしろ、宣伝することによる、嘘臭さを嫌う。
こういうギャップに気がつかなくなるにつれて、老害は進行する。
 
自身の老害化を避けられるかどうかは、「遊んでもらうこと」にかかっているんじゃないだろうか。
年上の経験が勝てるのは、あくまでも専門的スキルであって、すべてじゃない。
しかも、専門的スキルの効率化やデジタライゼーションが関わるのなら、それすら敗北するだろう。
経験からくる直感の働かせ方や、洞察力、分別の勝負を除けば、年下ってけっこうすごいのだ。
特に、年上が経験していないことも、年下が経験している場合もあり、そのとき年下は先生になる。
こういうときには、素直に教えてもらえばいい。
「す、すげぇ」と驚くこと。
けっこうあるんだよなぁ。
おっさんになってきていて、若い人が関わってくれることに、あたしゃあ助かっています。

得ることを、失ったのだ。

2019.9.27

不思議だ。
自分も含めて、人は誰から言われずとも、自分のことをおっさんと呼ぶようになる。
じいさんや、ばあさんも同じだ。
 
このことについて考えていると、「失う経験」と「得る経験」のバランスが変わる瞬間が関わっているような気がしている。
昔から相談を受けるタイプだったが、年齢を重ねるにつれて、回答の仕方や回答しているときのイメージが変化している。
昔の回答方法は、自分の意見や考えを100パーセント話す感じだ。
それが今では、「この場合なら、こう。こうであれば、こう」というように、事象についての対応を話すような感じになり、理由を問われたら「人間って、そういうものだから」という回答になる。
 
ここから分かるのは、自分の視点から、他者の視点になっていること。
自分の視点を持っていた者が、他者の視点が手に入った後、何を手に入れるのか。
実は、ほとんどないのだ。
慌てることもほとんどなくなったし、何かがあったからといって、どうかなるわけでもないことも十分わかってしまった。
落ち着きを得たことで、慌てるを得ることも、落胆を得ることもなくなったのだ。
得ることを、失ったのだ。
人の相談を聞いていると、「この人は、まだ得るものが多いんだな」と思うようになった。
それと、「あぁ、この段階なんだな」とも思うようになった。
 
考えながら動くことが増えるにつれて、瞬発的な筋肉動作ができなくなっていく。
簡単に背中を痛めるし、活動力が減っていく。
動けなくなる前に、落ち着くための経験値を積み重ねることができて、あぁ、よかった、と思う。
今、30代を迎えた人がいるのなら、「動けなくなることを想像して、その時にできることを今のうちから身につけ始めるといいかもね」と、アドバイスするかもね。