Archive for 2018.8

広げるゲームをしない。

2018.8.21

つねになにか種を撒いておいて、仕事を広げようとは思わない。
いや、ちょっと前までは、そういう気持ちもあった。
ただ、このゲームをしていても、つまらないことに気がついた。
 
背伸びをしていないつもりでも、ぎりぎりの部分までは大きく見せていたり。
議論を白熱させたり。
周囲に不満を抱いたり。
正論で追い詰めてしまったり。
スピードを価値にしたり。
対応力を価値にしたり。
もうそんなゲームからは降りたつもりだったけれど、またゲームに乗ってしまっていたことに気がついた。
 
結婚をしようが、なにをしようが、今日を笑って死ねる自信をもちたいだけ。
これだけのために生きてきたはず。
いや、ちょっとは人の役に立ちたいかな。
だから、結果的に人の役に立ってたらラッキー、ぐらいの気持ちで仕事をしようと思った。
 
クリエイティブで仕事をしているんだ。
そんなものを仕事にしようとする奴なんて、本来は世の中のつまはじき者だったはずだろう。
当たり前じゃないゲームだってあるはずだ。
「マジメか!」というツッコミは大好きだなぁ。
本来は、俺らがこうやってツッコミをいれるのが仕事だろう。

無駄さん、これからよろしく。

2018.8.20

一生懸命を捨てる宣言をして、 やることと言ったら「無駄なこと」だろうと思って、最寄り駅を走っている路線の終点まで行ってきました。
約一時間半ものあいだ電車に揺られ着いたのは、埼玉県の久喜駅。
駅についてからはとりあえずバスに乗ってみて、降りた後は駅に向かって歩くだけ。
途中、かき氷屋さんに寄って、いちごが丸ごと何粒も入っているかき氷を食べながら、ひたすら10キロ近くの道のりをサンダルで歩いていました。
ただただ歩くだけ。
難しいことは考えない。
足は棒のようになっても歩くだけ。
バスが全然通っていないんですもん。
(そういう道を歩いてしまったんですけどね)
時間でいうと四時間ちょっと歩きました。
帰りの電車では居眠りして。
すると、最寄駅から自宅まで帰ってくる間、足は重たいのに、頭は軽くなっているんです。
考え事をせずに、黙々と歩くことをして、道中の民家や、トンボや、田んぼに気をとられた一日が、頭の重みをとってくれていたといことです。
もう二度と同じ道は歩かないと思いますが、たまにはこういう「無駄なこと」に一日を使うのもいいです。
無駄から「俺をなめなんよ」と言われたような気がしました。
無駄さん、これからよろしく。

検索力は答えを考える力ではない。

2018.8.19

おととい、携帯電話をほとんど触らない日にしてみて気づいたことがあります。
いまの人たちって、考える力が弱くなっているんじゃないかと。
 
問題と遭遇したときに、ほとんどの人が検索をするでしょう。
けれども、検索してでてくるのは、誰か知らない人が書いた解決策。
この解決策の信憑性を測るには、似たような記事を探したり、記事の評価を確認したりするでしょう。
ここで鍛えられるのは、上手く解決策にたどり着くための検索力です。
「この単語とあの単語を組み合わせたら、誰かが答えをくれそうだ」という力です。
これ、答えを自分で考えて、問題を解決しようとしていませんよね。
 
検索が当たり前ではなかった時代に、周りにいる人たちに質問ばかりをしていたら、「自分で考えろ」と叱られたはずです。
「バカヤロー、そんなこともわからねーのか!」と怒鳴られることもあると思います。
つまり、自分の頭で考えて答えを出してみる環境の方が、当たり前だったんです。
「自分で考える」「人に質問する」「検索をする」のうち、「検索する」が当たり前になると、「自分で考える」ができなくなっていくんじゃないかな。

100点のデザイナーを育てる。

2018.8.18

デザイン思考、デザイン経営、デザイン組織、デザイン家電、デザイン〇〇、、、すべて、デザインを特別なことのようにしているけれど、この特別感がそもそもの間違い。
 
design(デザイン)の語源であるdesignareは「計画を記号に表す」の意味を持っている(deignareは「線を引く」の意味もあり、dessin(デッサン)の語源にもなっている)。
つまり、計画することも、これを表すこともデザインの範疇なのだから、誰もが当たり前にしていることだ。
個人であれば、「今日のお昼は何を食べよう」「明日は何をしよう」「この先の人生をどうしていこう」と計画をたて、服装や髪型、化粧、話し方、身振りにいたるまで「あなた自身」を表している。
これが法人であれば、ビジョンを考えたり、事業計画を立てるもよし、予算をりん議で通すための計画でもよし、ありとあらゆることを計画しているだろうし、オフィスや什器を選んでは理想のオフィス環境を表現しているだろう。
 
これほどまでにすべての人が当たり前にやっていること、これが「デザイン」だ。
だから、デザインの能力とは、特別な人の特別なセンスなのではなく、単純に、計画し表すことが効果的に機能しているかどうかなだけだ。
この能力は、専門的技術と知識に依るところがおおいにあり、誰でも確実に育てることができる能力だ。
 
しかし、育つことで難しいのは、誰でも簡単に育つのは「ある程度」のところまで。
最近のデザインを見ると60点程度のものが溢れているが、「ある程度」の成長で育つことを止めてしまったデザイナーたちの末路に思えてしまう。
そのような現場でよくあるのは、スピードだ。
試行錯誤の回転を素早く回すことで、リリースとアップデートを繰り返していく手法を代表するように、昨今の現場は急ぎすぎている。
もしくは、クオリティを担保するのに必要な時間を確保できない現場になってしまっている。
デザイナーのやることも増えてしまっているので、成長の前に、パターンでやりくりすることに追われてしまい、100点のデザインを作り出すことができなくなっているのが多くの現場だろう。
100点のデザイナーが毎回100点を出すことは不可能に等しいが、60点のデザイナーが数多くいたところで、100点のデザインを作り出すことはできない。
100点を作り出すためには、100点を出せるデザイナーがいることで可能となる。
  
ブレストのような現場では、耳障りのよい案や声の大きさによって案が通ってしまう。
すると、考えて吟味する時間がなくなっているのだ。
アップデード、つまり改良は、どの製品やサービスにおいても必要だが、「アップデードすればいい」と思って作ってしまうのは、ツメが甘くなるだけだ。
このような現場では、100点を取れるデザイナーは育たない。
本当にデザイナーとして育ちたいのなら、急がば回れだ。

思い出も、目の前も。

2018.8.17

先日、多摩川の花火大会を見ていました。
地上15階から見る花火。
 
花火の思い出は高校生の頃、通っていた高校の屋上に侵入して見る地元の花火です。
地元ではけっこう有名なお祭りで、電車に乗ってお客さんもやってくるほどでした。
おそらく今でも続いているお祭りです。
高校の屋上で見る花火は、びっくりするほど近く、打ち上がるたびに心臓にドーンって鳴り響きます。
もう、打ち上がる音や体内に鳴り響く音で、会話もままならない感じです。
花火の思い出ってこれなんです。
だから今までは「〇〇の花火がすごい」と聞いても、高みの見物というか、まぁ、嫌な奴だったんですよ。
 
けれども、昨日気づいたんです。
「思い出は負けようがない」と。
 
思い出と比べるよりも、目の前の花火を楽しんだ方がいいじゃねーかと気づいたわけです。
すると、打ち上がっている花火のひとつひとつや、一連のパフォーマンスがいいもんだな〜と見えてくるんです。
打ち上げの組み合わせ方とか感動もんです。
花火のヒトだって、見ているヒトを楽しませようと毎年工夫しているんだぜ。
思い出も、目の前も、どっちも楽しんでいいじゃん。