Archive for the ‘心の健康’ Category

歳を重ねるほど、自由になっていく。

2019.4.19

肩の荷が下りた。
サンポノのホームページでの紹介文を、「個人経営の事務所ですが、運が良く、縁もあって全国各地からご相談を受けています。」に変えたことだ。
それから自分の役職を「サンポノ店主」としたことだ。
「代表」は法人における人として動けない部分を肩代わりするための役職だし、「主宰」と言うのはこっぱずかしい。
人によって役職の思いはあるだろうが、ぼくの場合は、そんなに改まった名前はいらないとずっと思っていた。
昔、事務所に勤めていたとき、師匠から「雇われていたとしても、江口商店だと思って仕事をするんだ」と言ってもらったことを、ずっと胸に刻んで仕事をしてきた。
だから、自分が関わった仕事の商品は、購入できるものは買ってきた。
自分の店に置くものは、自分が欲しいものじゃなければ嘘になる。
そう思って仕事をしてきた。
だから、自分にとっては「店主」だったり「店長」という言葉の方がしっくりくる。
サンポノ店長、役割はディレクターだったり、写真家だったり。
仕事は、人生という散歩のついで。
歳を重ねるほど、自由になっていく。

バリ島ウブドで学んだこと。パート7。

2019.4.18

「もらい上手」って素敵だと思っている。
プレゼントとも言えないような、ちょっとしたお菓子やお土産をあげたとき、喜ぶのがとても上手い人とたまに出会う。
どこかの国のホームコメディのように大げさに喜ぶんじゃなく、お世辞を使っているようには全然思えない喜び方があるのだ。
何かをあげた方が「こんなんで悪かったな」と思うのではなく、「あげてよかった」と思わせてくれる喜び方。
あげている方が、喜びをもらっているのだ。
だから、「今度はなにをあげようかな」だったり、「なにをしたらあの人はまた喜んでくれるかな」と思ってしまう。
のぼせている、とも言えるだろう。
その瞬間だけ恋をしているとも、言えるだろう。
こう考えて気づいた。
 
「バリの人の喜び方と一緒だ」と。
 
チップを受け取るとき、「当然」という表情でもなく、「恐縮」するのでもなく、サービスをしているときと変わらない「笑顔」でチップを受け取ってくれる。
ということは、サービス、つまり仕事をしているときの笑顔が、男性も女性も可愛いんだ。
これは天性のものなのか、はたまた後天的に身につけられるものなのか。
日本だけにいたら分からなかったことだけれど、バリに行ってそうだったサービスの人、そうじゃないサービスの人を見ることができて、後天的に身につけられると思っちまったんだな。

バリ島ウブドで学んだこと。パート5。

2019.4.13

金曜日は、毎月恒例の根津神社へのお参りに行っていました。
そうしたら、毎年恒例のつつじ祭りが開催されていて、ちょっと早い気もするけれど、つつじが綺麗に咲いていました。
 
「毎月お参りに行く」ということも、信仰の表れでしょう。
「歴史を引き受ける」という姿勢のもと、仕事をしているのも、一種の信仰でしょう。
歴史上の先達に見られている感覚があるというのも、信仰と言えるでしょう。
人はそれを「神」とか「もう一人の自分」とも言いますが、これと同じです。
こういう人は、同じように信仰を持っているんだと思います。
 
ひとつ気をつけたいのが、「信仰を持っている」から特段に優れているわけではないということです。
バリでガイドをしてくれたアディさんが、いいことを話してくれましたが、彼らがバリの占いを信じるのは、バリの占い師を信じているから。
毎朝、お供え物をするのも、習慣としてやらないことの方が気持ちが悪いから。
悪魔が悪さをしないようにお供え物をする、ということが染み込んでいて、やらないことの方が気持ち悪くなるから、毎朝お供え物をする。
信仰というのは特殊なことではなく、ほとんど習慣に近いようなことで、信じないことの方が、自分にとって都合が悪いから信じているようなことです。
だから、そうじゃない人が、バリの占いを受けても意味がない、とアディさんは言っていました。
 
これ、本当に「信仰」について的を得た話だなぁ、としみじみ思います。
 
ぼくが仕事で感じている先達の気配も、他の人たちに強要したことはないです。
違うスタンスの人も、もちろんいていいでしょう。
 
信仰とは、特定の宗教に入ることとは違うんだろうな。
バリで毎朝お供え物をしている姿を見かけて、「いいな」と感じるのも、ぼくがバリの信仰を持っていないからなんでしょうね。
これは、ひとつ発見したな。
自分は仕方がなくやってしまったり、感じてしまったりすることを、人はちょっと「いいな」と感じてしまう。
こうやって世界を観察してみると、「あの人の信仰」ということが、わかるような気がします。

バリ島ウブドで学んだこと。パート4。

2019.4.12

昨日の投稿で「体を炒めるかもしれない。」と書いて、改めて読み返してみたら、ちょっとだけ気持ちがラクになりました。
本来は「痛める」なんですけどね、まぁ、これ以上は言う必要がないですね。
 
話は変わり、連日、バリ島でのことを思い返しています。
あのホスピタリティは半端ないな、と。
明細書を見ても細かく単価が書かれているし、待ち合わせ時間には必ず先に到着して待っていてくれる。
もうね、日本人が特長として挙げていた「きっちり」でも、バリに軍配が上がります。
それで、荷物は持ってくれるし、色々と対応もしてくれる。
さらには、笑顔まで溢れて、「ハロ〜」なんて挨拶しちゃう。
これが出来ているから、「サービス料」は当然だと思えるし、「チップ」だって払いたくなります。
 
もうね、たった一週間滞在してただけなのに、帰ってきてからの日本の冷たさに参っています。
心身ともに。
二時間半で出て行かなきゃいけない飲食店なんて、ゆっくり飯も食べれないじゃない。
 
あんまり大きな島でもないのに、どうして、あれだけのサービスとホスピタリティを提供できるのか、日々考えています。
宗教というよりかは、信仰はありそうだな。
ほとんどが飾りである街中の銅像にもお供え物をしていたな。
俺の「歴史を引き受ける」ということも、もしかしたら、信仰なのかもしれないな。
これは、もうしばらく考えることになりそうです。

バリ島ウブドで学んだこと。パート3。

2019.4.10

思えば、アルマ美術館で見かけたスタッフ衣装が綺麗だった。
写真を撮らなかったことを、いまさらながら後悔している。
白のシャツに、濃いめのピンクと黄色のスカート。
スカートは腰巻だったかもしれない。
バリ舞踏で見た民族衣装は、上下ともにきらびやかだったから、衣装デザインとしては、そんなに古いものではないだろう。
 
白いシャツはレフ板としても使えるように、表情を明るく見せる。
普段から笑顔があふれているバリ女性の表情が、いっそう美しく映える。
薄化粧も、清潔さを醸し出すのに手伝っているだろう。 
そこに、色味のはっきりしたスカート。
清潔さに彩りが加わる。
素朴さと清潔さに彩りを合わせたスタッフは、本来の気立ての良さに輪を掛けて、とても魅力的に見える。
頭のてっぺんからつま先まで、バランスがとてもよかった。
靴はどんなのだったか思い出せないのが惜しい。
 
こう考えていると、古いものを観に行っても、そこに携わる人や物のすべてが古くあっては感動しないということに気が付いた。
それで感動するのは、自然の中だけだ。
人工物が混ざった時、古い遺跡を観に行っても、全部が全部古いままだと人は訪れないだろう。
そもそも、訪れることができなくなってしまう。
 
訪れることができても、会う人が古いままであれば、出会ったときのインパクトはあるかもしれないが、その後の関係性で感動は訪れない。
古(いにしえ)を引き受けて、「いま」を生きる、血の通った部分に、私たちは感動を覚えている。
アルマ美術館のスタッフが素敵に見えたのは、古くからのバリっぽさの中に、現代の良さが混ざって、人柄が表れたからに他ならない。