Archive for the ‘心の健康’ Category

知らないことをやってみるとおもしろい。

2019.8.29

やっぱり雨が多い夏だ。
いや、もう秋か。
そうやって書き始めたのには、「とりあえず何か書こう」という気持ちが働いたからだ。
いま、動画を撮りながら、ブログを書いている。
 
動画と動画をつなぐ場合、それぞれを別の角度にしないと、つなぎ目が不自然になる。
例えば、ネギと人参と肉を切る場合、それぞれの食材ごとで撮影カットの位置を変えないと、つなぎ目が不自然になる。
同じ角度の動画の一本撮りの場合は、フェード(あってる?)でつなげる。
そして、10分の動画には約50カットが必要で、1カットあたり12秒の計算になる。
これ、さっきやってみてわかったこと。
写真の撮影ではなかったことが、動画にはある。
こういうことがおもしろい。
 
動画を撮影してみようと思ったのは、たぶんだが、新しいことをしたいんだ。
そして、「楽しい」をしたいんだ。
幸か不幸か、ぼくはずっと仕事をしてきた。
性格なのかもしれないが、どんなに仕事から離れても、仕事脳から離れることはない。
でも、写真を始めたばかりの頃、写真にまつわることが全部楽しかったはずだ。
ぼくはそう記憶している。
ぼくの楽しいセンサーが、そうだったよ、と言っている。
そういうことを、再びしたいんだ。
 
そうじゃないと、ぼくの中の「楽しいセンサー」がなくなってしまうような気もしている。
いや、仕事にまつわるアレやコレは、全部やり尽くしたような感じがするんだ。
あとはこの応用や展開でしかないような、そういうレースのような気がしちゃっている。
だから、「楽しい」がどこかに残せるように、生きたいんだ。
そのひとつが、動画なのかもしれないってこと。
だから、とりあえずやってみる。

なしお。

2019.8.24

「やりたい事というのは、なくなるもんだなぁ」と実感している。
すると、どんどん分かるようになる。
欲望がないまま物事を見れるので、クライアントワークをやる分には、すこぶる便利だ。
 
そして、やりたい事がないからと言って、何でもいいと言う訳ではないんだなぁ。
やりたい事がなくても、やりたくない事はあるもんだ。
だから、「やりたくない事をなるべくやらないで済む人生を送る」のが、ぼくのやりたい事だ。
 
そのために今までがあった。
求められる能力を発揮できるように、やりたくない事を極力減らす。
やりたくない事をやらないで通すためには、別の能力が必要だ。
自動化できるところは、なるべく自動化させる。
他の人では替えの効きにくい能力を持つ。
 
こういう能力をつけるために、努力があった。
嫌々やっている訳じゃないから、努力と言えないようなものばかりだったけど。
なるべく自分が楽しくいられるように、精進してきた。
ぼくにとって精進というのは、嫌々やってもいいし、楽しくいながらやってもいいことだ。
だから、楽しくやれる精進だけをしてきたし、面倒くさいことは、なるべく楽しくいられるようにゲームにしてきた。
今の日本で、こういう心持ちで生きていても焦らないでいられるのは、二十代の頃に読んだ古典のお陰かもしれない。

ロビンソン・クルーソーの賃借対照表。

2019.8.23

天気が優れない日が続いていると思ったら、秋雨前線が停滞していたんですね。
長梅雨もあって、晴れ間の少ない夏です。
そう思った瞬間に、「あっ」と思いました。
「晴れの日もあったじゃん」って。
 
ぼくたち人間は、好ましくないことが続くと、それしかないような気持ちでいっぱいになります。
だけど、「いい面」を見つけようとすれば、あるんですよね。
本当に何もないようなときでも、「毎日天気が優れない。だけど、私は濡れていない」とか「雨に濡れた。だけど、私は病気になっていない」とか「病気になった。だけど、私は生きている」とか、何かしらのいいことを見つけられるんです。
以前、松浦弥太郎さんの本を読んでいるときに、「ロビンソン・クルーソーの賃借対照表」というのを知って、それが正にこれです。
船が難破し、一人だけで無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが、理性を保つためにつけ始めた賃借対照表。
ここには、人生を面白くするヒントがあります。
車におけるガソリンとか動力源や、人間における生きる意志とか、そんな強いものじゃなくて、「あっ、まだ捨てたもんじゃないな」と思えるもの。
強い人からしたら、慰めとか弱い種類の希望かもしれませんが、こういう賃借対照表を思いつくと、人生は面白くなります。
 
こういう天気のときなんかでも、事業の苦境のときでも、同じように使える、とっても便利なものです。
しかも無料で、誰でも使える。

慰めの言葉。

2019.8.18

上手い言葉が見つからないが、受け手と送り手で「言っていい言葉」は変わる。
例えば、何かを渡すときに約束の日から遅れてしまった場合、どんな理由があっても「仕方がないっすね」と慰めの言葉を言えるのは、受け手側だ。
これを送り手側が「仕方がなかった」と言えば、開き直りと捉えられても仕方がないだろう。
一方で、送ったものを無駄にしてしまった場合、「仕方がないっすね」と言えるのは、送り手側だ。
これもまた、無駄にしてしまった受け手側が「仕方がなかった」と言えば、開き直りになるだろう。
 
世の中は、同じ言葉でも「言っていい言葉」かどうかは、その状況で変わる。
特に「仕方がなかった」という言葉は、物分かりの良さが醸し出される分、言っている方は気持ちがいいし、逆にそのような状況で相手に詰め寄れば、利己的な愚者に映り、その場は良くても関係性は終わるだろう。
だから、「仕方がなかったね」と言われる方は、この言葉に慣れてはいけない。
「仕方がなかったね」と言っている裏には、「次は同じことはやらないでね」という意味が込められている。
これを読み取らずに、二度三度と同じことを繰り返すと、これもまた関係性を壊すことになる。
関係性を壊す立場が変わるだけで、やはり、「仕方がなかった」ということを、どうやって減らしていくかが、経験値を積むということなのだろう。
 
慰めの言葉をかけられたとき、安堵するのか、悔しい気持ちになるのか、それはもうその人次第なんだけどね。

ばあちゃんから習う。

2019.8.15

昨日の内容でもそうなのだが、ぼくは「恩送り」というのが好きらしい。
行為としても、言葉としても、好きなのだろう。
昨日は「あげる」と「もらう」についての話だったが、勘違いしやすいのは、こういう話をすると「見返りを求める人」と思われることだ。
けれど、そう思う人のことも、わかるようになったので気にしないようにしている。
 
見返りを求める気持ちが、少なからず自分にもあることは知っている。
それでも、はじめから見返りを求めると、つまらない言動になるのを知っているから、気が向いたまま、お節介を働くことにしている。
何かを提案するというのは、お節介をしてあげていると思えばいい。
そうすれば、提案を退けられたとしてもムキにならず、「あっそ」と気にしないでいられる。
すると、お節介を働くことが当たり前となり、いつの間にか「あげる」が当たり前となっている。
 
これに気づいたとき、ぼくは自分のばあちゃんを思い出した。
ばあちゃんは色んなことをしてくれた。
ご飯を作ってくれたり、毛糸で編み物をしてくれたり、麦茶をコップに入れて冷蔵庫で冷やしてくれたり。
細々したこともあげたらキリがないほど、いろいろなことをしてくれた。
だからと言って、過干渉ということではなく、自分の仕事を黙々とやる人だった。
やりたいことだったのかどうかはわからないが、いつも何かしらをやっていて、疲れたら昼寝をする。
ぼくの好きそうなテレビ番組がやっていると呼んでくれる、そういう人だ。
 
今でこそ、こういうことは、その人が大事じゃないとできないというのがわかるが、子どもというのは、これがわからず、拒否することがある。
そんなとき、ばあちゃんは「あっそ」という感じで、それ以上勧めてこないのだ。
 
ここまで書いて思い出したことがある。
母もそうだ。
母の場合は、「親だから言ってもいいことがある」という理論で説教をしたり、言うことを聞かせようという傾向があったが、大したことでない場合は、「あっそ」という感じで、拒むことを受け入れていた。
残念ながら、母はちょくちょく立場を持ち出してしまっていたので、こういう話のときは、ぼくの中では、ばあちゃんの方に軍配が上がる。
立場で言うことを聞かせようとする傾向は、父は絶対、母はときどきだった。
だから、父と母には悪いけれど、今日の話の主役は、ばあちゃんに譲ってほしい。
 
話を戻すと、この年齢になった今だからわかる。
やさしい人とは、ばあちゃんのような人のことだ。
お節介を働かせるのが怖いとき、ぼくはばあちゃんを思い出し、ちょっとだけ勇気をもらって、お節介をあげている。