Archive for 2012.11

良い骨、良い筋肉、それは社会にも

2012.11.27

ここ数週間で自身の自然治癒力が、知覚出来るほど向上している気がしている。
 
「どうしたら良い骨が出来るか、出来た良い骨の上にどうしたら良い筋肉が付いていくのか」
 
昔から、物事の性質を見つけるのが好きで、性質をそのままにするのか、付け足すのか、減らすのか――選択肢は大別して3つにわかれるが、良い方向と思える状態にもっていくのが好きだった。その結果、生活においては「手ぶら生活」と「装飾品をつけない生活」に至った。荷物が必要な場合でもバックパックを1つ、常に両手が空いている状態である。
 
この生活の延長線で、今年の夏ぐらいから「過剰にしない」ということを取り入れているような気がしている。「ような気が…」という書き方になってしまったのは、意識してそうしているというのではなく、そういえば…と様々な場面を思い出し、共通する性質をピックアップして言語化すると、そうだと言えるからだ。
 
例えば、料理。「丁寧に」作ろうとしている時ほど調味料の数を少なくしたり、食材の数を少なくしてスパイスを変えたりと、過剰に何かを足していくということをしなくなり、調理法や調理工程でも同じことがいえる。また、身だしなみでは、お呼ばれ以外では寝癖はある程度まで直さないし、風呂でもシャンプーやボディソープなど使う必要がないことに気づいたのだった。汚れ、垢、皮脂なんてものはお湯を「丁寧に」扱えば流せるので、お風呂道具は宿泊する人のために置いてあるようなものになっている。お呼ばれや食事会の場合だと、迷惑がかかるのはホストの方なので気をつけるが、それもある一定のラインでいい。ホストが喜ぶラインで良い。
 
こういうことを書いていると、「ある程度でいい」という中級生活の良さを謳っているように思われるが、そうではなく、「極上の状態」を求めての結果なのだ。作品をつくることを極めたいがために、徐々にそうなっているということだ。仮に僕のやっていることが異なっていれば、違う水準や性質があり、そこを求めていけばいいと思っている。ただ、共通しているのは「人はいつ死ぬか分からない」という点において平等だということだ。
 

 
上記を書いていて、まだ確証はないが、こういったことの先に個人(作家、アーティスト、職人、従業員、社長など)と社会(他人、業界と呼ばれるもの、その他の業種)が上手くやっていく接点があるような気がした。N.H.R(ネオヒューマンリレイションシップ)やN.G(ネオガバメント)の性質があるような……。山の中に入るのはまだ早いかもしれない。

帰る場所、それは「つくること」

2012.11.24

おとといは作業に集中していたら、体重が腰痛を引き起こした時の状態まで下がっており、昨日の作業後は体重を増やすことに専念していた。そうして今朝、約1時間30分の運動。10km走では高校時代のタイムに追いついた(40分フラット)。
 
遮二無二に高速の強さを求めていた時代とは異なり、温かくてまぁるいフワフワした笑顔で走っていた。途中、雨が降ってきたが天は泣いておらず、笑っていた。
 
ずっと求めてきた「最高密度のまま最高速度を発揮する道」が見えた瞬間だった。次元が異なっていたら、はるか遠くにいたら見えない道、見えない答え……それが見えた瞬間だった。「光(Photo)を描く(Graphy)」を超えるのは別の場所へ行く事ではなく、超ド級「光を描く」ということだったのだ。
 
土の冷たさと温かさの上に俺は立ち、天の衣を纏い、作品を出す。
 
「なんで、そこまでするの?」と尋ねられる。頭と体をフル回転させて集中すれば体重は減る。ベストパフォーマンスのための体重があり、その付近を維持するために食事を摂る……ベストパフォーマンスを発揮するために体を鍛え、体をつくるために食事を摂る……ベストパフォーマンスを発揮するために夜に寝て、朝起きる。こんなことを続けていれば友人の数は減るが、それは関係なく、作品をつくるためだけの体であればそれでいい。それだけが楽しければいい。傍から見れば馬鹿らしいことだろうが、それ以外のことと比べたらダントツで一番、つくることが楽しいのだから仕方がない。
 
帰り道、いつものように目を閉じて歩いていたら、前から車がやってくることに気付いた。衝突しても負ける気がしなかったので、そのままにしていたら車に避けられたが、今でも負ける気がしない。つまり、現実に出来るということだ。

そうある

2012.11.23

さきにあるのが地獄だろうが天国だろうが、はたまた何も無かろうが、何処かがあれば「会いたい人」がいるってのは救いだな。
 

 
社会で生きる道で、40歳以降で始められそうなことを35歳あたりで始めようと目論んでいる(そうすれば、50歳ぐらいで形になりそうだ)。ネオ・ガバのような、ネオ・ヒューマン・リレイションシップのような……要は「でかい祭り」だ。
 
現代でも異業種の関わりから始まったりすることは方々で起きているが、どれも、一部の人で閉ざされたり、オシャレ系と思われる人達からの施しのようなカタチで行われている。もしくは、中心にいる者へお金や利益が集まる仕組み(会費など)になっている。
 
話は飛ぶが、家康、秀吉、信長のうち、暴君とも聞こえる信長に人気が集まるのは、「市井が盛り上がる祭り」をやっていた性質を、現代の人達が好んでいるからだろう。たとえ暴君のように見えたとしても、粋だったんだろ。粋って大人になってはじめて醸し出せる雰囲気にもかかわらず、子どもにも伝わる格好良さだと考えている。今の日本が粋かどうかは怪しいが、「侘び寂び」や「うまみ」のように英語に出来ない日本人の感覚だ。石川五右衛門が、ダークヒーローとして盗んだ金銭を高い所からばらまき、「絶景絶景!」とはしゃいでいたのは、誰もが聞いた話だろう(別に盗みをやろうって話じゃないですぜ)。
 
粋である——そうなりたいと望むのではなく、そうあるように。

つくるを極める

2012.11.18

先ほどのとは相反するが、残りの人生「つくるを極める」ことだけで良いとも考えている。天があり、地があり、俺がいて、作品が生まれる。そのことに気付いてからというもの、誰にも邪魔をされずにただつくることが出来る環境を探している。それが無人島での自給自足の思いへ至ったのだ。生きるをつくるへ、つくるを極めるへ。指を前へ出し、腕を横に広げれば(天に)線は描かれる。既にそれは作品になっている。もっと高く、もっと深く、俺を動かし、作品を生み出したい。つくることを極めたい。

人と生きる

2012.11.18

「毒を食らわば皿まで」、「良薬は口に苦し」という言葉を思い出した。この言葉の意味はおいといて、毒だろうが薬だろうが腹におさめたいという人間の欲求が言葉として構成されている。この毒や薬は自分の外にあるものであり、人間は外部にある目立つものへ向かう。
 
何故この言葉を思い出したかというと、この二週間のほぼ毎日「毒にも薬にもならない」ということを話題にしていたからだ。偶然だが、そういう場でよく食べているものに餃子があり、どの餃子も美味しいのだが、もしも味も香りもしなければ誰も食べたいと思わないだろう。つまり、無味無臭と感じられる今吸っている空気も、特別なことがない限りは大切に扱うことはなく、「息を呑む」という言葉に使われる息も自分の息であり、他人の息を欲しいとは思わないはずだ。
 
しかし、大切だと思われていない空気も質の悪い空気であれば、徐々に体を蝕まれ、心身ともに不調をきたしていく。このことを人間に当てはめて考えると、何でもないと自身で卑下した毒にも薬にもならない人間は、その人間の言動を受けとめる周囲の人達をいつのまにか傷つけていることになる。
 
では、どうしたら良いか。毒か薬か健康な空気になれば良いのだ。特別な技能を披露して歩く必要はなく、「○○が好き」、「○○がやりたい」、「○○が楽しい」ということを叫んでいれば自ずと目立つ。目立ったものが毒か薬かというのは腹におさめた人間や環境が勝手に決めるものであり、不調があれば健康な空気に向かうだろう。
 
昨日、ある後輩と話していて楽しかったのだが、その子曰く「特別なことでやりたいことはなく、安定した生活を送りたいから職場を変えた」という子がいた。その人にとっては「安定した生活を送る」ということが「やりたいこと」であり、やりたいことを求めて居場所を変え、そのことを堂々と話している姿は格好良いと感じた。
 
人はいつ死ぬかわからない――毒になるか、薬になるか、健康な空気になるかを選び、選んだことを恥じずに話せる人と話をしているとき、僕は社会生活での楽しさを見出している。そして、話したい人かどうかというのは「やっていることの種類」よりも、「自分がやっていること」をどれだけポジティブに話せるかということで差が出てきている。その後、やっていることの種類が異なれば仕事上の話になり、良い循環が始まりやすい。
 
会話によって楽しさを感じるのは、人間の幸せの一つだろう。