人と生きる

2012.11.18日々のこと

「毒を食らわば皿まで」、「良薬は口に苦し」という言葉を思い出した。この言葉の意味はおいといて、毒だろうが薬だろうが腹におさめたいという人間の欲求が言葉として構成されている。この毒や薬は自分の外にあるものであり、人間は外部にある目立つものへ向かう。
 
何故この言葉を思い出したかというと、この二週間のほぼ毎日「毒にも薬にもならない」ということを話題にしていたからだ。偶然だが、そういう場でよく食べているものに餃子があり、どの餃子も美味しいのだが、もしも味も香りもしなければ誰も食べたいと思わないだろう。つまり、無味無臭と感じられる今吸っている空気も、特別なことがない限りは大切に扱うことはなく、「息を呑む」という言葉に使われる息も自分の息であり、他人の息を欲しいとは思わないはずだ。
 
しかし、大切だと思われていない空気も質の悪い空気であれば、徐々に体を蝕まれ、心身ともに不調をきたしていく。このことを人間に当てはめて考えると、何でもないと自身で卑下した毒にも薬にもならない人間は、その人間の言動を受けとめる周囲の人達をいつのまにか傷つけていることになる。
 
では、どうしたら良いか。毒か薬か健康な空気になれば良いのだ。特別な技能を披露して歩く必要はなく、「○○が好き」、「○○がやりたい」、「○○が楽しい」ということを叫んでいれば自ずと目立つ。目立ったものが毒か薬かというのは腹におさめた人間や環境が勝手に決めるものであり、不調があれば健康な空気に向かうだろう。
 
昨日、ある後輩と話していて楽しかったのだが、その子曰く「特別なことでやりたいことはなく、安定した生活を送りたいから職場を変えた」という子がいた。その人にとっては「安定した生活を送る」ということが「やりたいこと」であり、やりたいことを求めて居場所を変え、そのことを堂々と話している姿は格好良いと感じた。
 
人はいつ死ぬかわからない――毒になるか、薬になるか、健康な空気になるかを選び、選んだことを恥じずに話せる人と話をしているとき、僕は社会生活での楽しさを見出している。そして、話したい人かどうかというのは「やっていることの種類」よりも、「自分がやっていること」をどれだけポジティブに話せるかということで差が出てきている。その後、やっていることの種類が異なれば仕事上の話になり、良い循環が始まりやすい。
 
会話によって楽しさを感じるのは、人間の幸せの一つだろう。

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