Archive for 2010.6

我執の話

2010.6.29

 仕事場に異物が入ることをかなり避けていることを、今日、再認した。(あまり見ない)生活スペース、(普段から目にする)生活スペース、仕事場の順に避ける度合いは強くなっていく。そのお蔭かどうかはわからないが、他人が私の環境で作業をしても「やりやすかった」と言ってくれるのだが、それも普段から気をつけているからだろう。何故、気をつけているかというと、どんな性質の作品にも対応できるように、というのが一番の理由かもしれない。

 しかし、異物を入れたくないという傾向が強くなりすぎると、異なった環境下での作業力が著しく下がってしまうので、ある程度はイレギュラーに慣れようと考えている。そして、あまりにも共通点が無い環境下はとても大変なのだけれども、そこから得るものがある内は、そこに身を置いておくのも、また一興だろうと思っている。慣れた時に「何が必要か」を見出せればいいだけの話なので。

 今までもカメラや道具を借りたり、色々な場所で創作をさせてもらってきたが、それ故、何かに固執するっていうことがないのは、私の強みだと思えている。固執は我執に変わり、我執はいつの間にか、性質の純度を下げている。

 でも、我執から解き放たれるのは、なかなか大変だけれども。

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いや、もう本当に

2010.6.28

 いや、もう本当に・・・今週号の『週刊少年ジャンプ』に連載中の「バクマン。」を読んでいて、嬉し過ぎて泣いてしまった。本当に、本っっっっっ当っに、よかった。

 コミックスでしか読んでいない人も、読んだ方がいいですよ。単行本のサイズではなくて、少年誌のサイズで読むと、ますます泣きます。

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「見返り」と「対価」

2010.6.27

 全然お知らせしていないにも関わらず、色んな人が観に行ってくれているみたいで嬉しいです。webもしっかりつくっているんだし、誰でも興味があることは自分で調べるでしょう? ということからDMやメール連絡の類いはしない方向で進めています。紙だってその1枚のために死んでいるものがいたり、再生紙だろうとそのためにエネルギーが必要とされており、そのエネルギーの作られ方への対価の疑問は、私が度々言うことです。「見返り」と「対価」というのは、似て非なるものだと考えている。「見返り」というのは利益を求めているが、「対価」というのは「支払うもの」を対象とする言葉である。つまり、前者では自分のための利益であるが、後者では自他への責務ということになるはずなのだが、どうにもこういう話をしていると「見返りを期待している」ということへ繋げてしまう人が多いようだ。話は変わり、「The Outerspace」の発展が買出し中に湧き出したのだが、1作業に1時間以上、PCが動かなくなるので、全然進行しません(その間、アナログなことや私生活が進んでいくのです(僕にだってちゃんと私生活がありますよ))。超大作だけれども、超時間がかかりそうです。しかし、それも大切な対価だと、気を引き締めて頑張ります。

↓ストレスが溜まったらこっちで遊ぼうと思います。
http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

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ポジティブシンキング

2010.6.27

 昨日、2つ映画を観てから、振り込みをし、明るい部屋へ。思えば、その日はあまり良い始まりではなかったが、明る部屋で、加藤さんとその場に居合わせたお客さん2人を交えて話していると、時間を忘れて話すことをしていた。その後も予定があったので、気付いた頃には・・・「あぁ、遅刻だ」と。けれども、10分くらいのはずだったので、「走れば間に合うかもな」と思ったのだが、ここが間違いだった。

 四谷三丁目から曙橋へ走って行こうとしたら、かなり行き過ぎて、「何か変だ」と違和感を抱いたときには早稲田だった。その時は違和感だけだったので(そこが早稲田だとは気付いていない)、テレビ電話交番(ハイテク?)に飛び込み、「一番近い地下鉄の駅は何ですか?」と聞いてしまい、すると「右の方に言った東西線の○○早稲田ですよ」の回答に、「あぁ、こいつは駄目だ」と苛立ったので礼を言って電話を切り、次に交差点にいた男性に「曙橋の駅はどこですか?」と尋ねると、驚いた表情に変わり「かなり遠いのでバスで行った方が良いですよ」とのこと。バス停や降りる場所を教えてくれたのだが、その時でも、「何を言っているんだ?」の私。最後に近くにあったコンビニで曙橋の駅とその他の一番近い地下鉄の駅を聞き、漸く、自分がかなり行き過ぎたことに気付く。結局、牛込柳町まで戻り、電車で神保町まで着た所で、Sさんから「入れないかもしれないです・・・」の着信。

 この40〜50分の出来事を思うと「俺は何のために走ったんだ?」と笑ってしまったが、こういうことも久しぶりだったので、何か楽しいものがあったのも事実であり、すぐに心地良い汗をかいていることに気分が変わったので、結果オーライ。しかし、神保町から日吉行きの電車に乗ったところで、「昔、お世話になったカフェにビールを飲みに行けるじゃん」と気付くが、既にドアはプシューと閉じていく・・・最後までそんな一日だった。折角、見学の御連絡をいただいたのにもかかわらず行けなかったSさん、明るい部屋で「後で会場で」と別れた高木さん、ごめんね。

 ↓白バージョンのホームページです。
http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

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昨夜考えていたこと

2010.6.19

 現在、絶賛開催中のFOILグループ展のレセプションに行ってきました。かなり遅れて会場入り(Uさん、お待たせしてしまいごめんなさい)だったが、賑わっていて驚いた。大体つまらない会話に憤りを覚えてしまうレセプション(パーティ)嫌いな僕としてはかなり珍しく、2次会まで参加させていただきました。初対面の方々からも名前を知ってもらえていて感謝感激でしたが、それ以上に、しっかりと作品や活動の会話が出来たのが嬉しかったです。

 写真新世紀関係では初対面の宅間さん、久しぶりの竹之内くんと話せたのはとても有意義な時間でした。考えて貪欲で真摯な人と話が出来るのは楽しいのです。そして、来月(もう告知いいのかな?)はそんな竹之内くんとも一緒のグループ展があります。しかも、似た様な立場にいる人を紹介しているみたいで、「もしや、皆考えていることは一緒か?」と思ってしまいました。加えて、Uさん、いつもお花と素敵な時間と御来場ありがとうございます。

 そして昨夜、「僕は人をみて仕事をしているな」ということをずっと思っていた。肩書きや地位とかってよりも、誘ってくれたSさんと秦さんとけっこう前にお酒を飲み、しっかりと話をした後だったので、今回誘いを受けて僕は快く参加したいと思ったのだった。人と人が交わって仕事が起きるのだから、やっぱり、その人がどんなことを考え、生きているかというのが重要なのだ。僕はけっこう古い人間なのかもしれないし、面倒臭い人間なのかもしれないが、それでも好いてくれる人達がいるっていうのは嬉しいことなのだろう。

 ↓こっちも見て下さいね。

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

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展示告知

2010.6.16

 昨日、金曜から始まるFOIL GALLERYでの展示の搬入に立ち会ってきた。自分の関わった作品と他の人のとを見ていて、ふむふむと思う。どこかに属することなくこのペースで活動が出来ているのは嬉しい限りです。

 スペースの都合上、ポートフォリオはカウンターの裏にあるようなので、見たい方は受付にいる方に話して下さい。それと、レセプションは初日の18:30〜らしいです。

 御高覧のほどよろしくお願い申し上げます。

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/news/news_exhibition.html

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続けた先の未来

2010.6.7

 最近、ふとした時に自分の手を描くことが多い。そんな時に思い出すのが、「手を描かせればその人間の絵の上手さがわかる」というピカソの言葉である(たしか言っているよね?)。「自分はどうなのだろうか?」と、頭をかすめるが、ピカソが生きていてもいなくても私が描き続けているのだけはなんとなくわかる。

 クリエイティブワークスが身近な業種になった現代、そして、彼らや私たちが「技術」と言って職に出来ている事柄などはこの先、ボタン1つで出来るようになるだろう。その結果、過去の藝術家が1人で全てのことをやっていたように、将来的にはクリエーターやアーティストと呼ばれるような人々も全てのことをするようになるだろう。しかし、ボタン1つで誰でも出来てしまえると思われているのだから、洞察力、具現力、努力、才能は今以上に求められると考えられる。それは、遠くない未来だと思えてしまう。

 このことは何年も前から話しているが、そこに悲壮感はなく、むしろ望んでいる未来像かもしれない。

http://www.maroon.dti.ne.jp/eguchimasaru/html/

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作ることの何でも屋

2010.6.7

 久しぶりにDreamweaverを触ると少し忘れている感があることに気付く。新たなことをやろうとして、既にあったことを忘れていてはキリがないが、作ることにおいての何でも屋になってきたのが、何か肩書きを持って振る舞うよりも、何も肩書きがない方が性に合っている感がある。そういえば、私の名刺には昔から肩書きを書いてこなかったような・・・あるデザイナーを紹介してもらった時にそのことを誉めてもらったことを覚えている。そんでその人が手掛けた分厚いカタログをもらったことをしっかりと覚えている。

 

 話は変わり、映画を4本観た。

 

 「重力ピエロ」、「少年メリケンサック」、「南極料理人」、「ゆれる」(tvk)

 

 「重力ピエロ」は良い映画だった。ストーリー構成など先読みが可能なものであるが、単なる家族映画ではなく、とてつもなく重くジリジリとした感覚を持つ映画であった。悩み抜いた末の善悪の判断を他人に委ねられてしまうのが法というものだが、そんなものでは真の善悪は判断できない。しかし、だからといって・・・(この先はストーリーに触れてしまうので割愛)・・・いや、でも・・・という考えが残る映画。映画としてのテンポも悪くないので、予告編やTVCMなどで軽い家族映画や人気(若手)俳優を揃えました感が出ていたのは、勿体ないような気がした(私もそれで観るのをためらっていた)。

 

 「少年メリケンサック」はまぁ、楽しいよね。ってことで。

 

 「南極料理人」を観ながら食べることについて考えるが、そういう時には決まって「生きるために食べる」のか「食べるために生きる」のかをどちらを選択しているのかを考える。他人からは「それではやっていけない(生活が出来ないという意味だろう)」と説教にもなっていないことを当然のように言われてしまうことがあるので、どうやら私は「生きるために食べる」方のようだ。

 

 ただ、私も料理をするし、けっこう色々なものを食べているらしい(料理名を覚えていないことが多い)ので、食に対してこだわりや楽しみを見出していると思われることがある。しかし、正直なところ、何でも良いのだ。生きるために食べているにすぎない。自分のために料理をするのは実益でしかないし、コストパフォーマンスの低いものや不味いものを食べるのが、馬鹿らしいからだ。作ることに楽しみを見出している時は、自分が食べることよりも他人に食べてもらっていることの方が多いし、作るという以上、「手放しで美味しいものを作ること」に意識は向けられる。つまり、「美味しい」という感覚を抱けるものであれば、何を作ろうが、こだわりはないのだ。しかし、「美味しい」という感覚に向けられるのだから、食材の性質や料理を出す順序、組み合わせなど、考えることは多岐に渡る。そこからまた、「生きるってどんなこと?」という問いについて考えることへと繋がっていくのだ。そして、「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉について考えるのだ。

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作るってことを選んでしまう、ただそれだけを。

2010.6.2

 なるほどと思った。「作ったら人に見てもらいたい」と思うのが当たり前(?)の考えらしいということを。そして、これはある時ぐらいから私にはない感覚だということも。

 作ることは辛いけれど楽しいし、でもやっぱり大変なんだけれども止められないから一生懸命作る。だから、やり方や領域が異なっても作ることを選んでしまう訳であるが、その先に「見せたい」を欲する心が当たり前のようなのだ。

 物理的にも精神的にも、作っているその瞬間だけが全てなのだ。それは今も変わらない。

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