Archive for 2019.10

先に好意を持つ。

2019.10.16

昨日は「自分の名前で仕事をするには、好意を持たれること」というようなことを書きました。
いい大人なら、好意と書いて、恋愛100パーセントと考える人はいないでしょう。
嫌悪感や無関心でない限りは、大抵は好意があります。
「友達にはなりたくないけれど、仕事はできる」というのは、好意はないですね。
やはり、「友達になりたい」や「友達になれそう」と思えなきゃ、その人に好意はないです。
「あの人に協力したい」とか「お節介を働きたい」というのも、好意があるでしょう。
これは老若男女問わず、誰に対しても抱く感情です。
 
当たり前な話をしますが、依頼仕事のうち、ぼくは引き受けるものと断るものがあります。
その基準は完全にぼくの好みです。
ヒアリングの段階で出会う人をムカついたら、その仕事は断ります。
ムカつく、退屈、つまらない、不潔、臭い……もう、完全に断ります。
 
ぼくは飽き性なので、好奇心が旺盛です。
知らない飲食店に入り、味が予想できないメニューを頼むのが、ぼくの癖です。
話を戻すと、ぼくの知らないことを話してくれたら、基本的に、ぼくは興味が湧きます。
けれど、話しているその人のことを「嫌だな」と感じたら、断るようにしています。
理由は、依頼を引き受けたら、最低でも三ヶ月から三年は、その人と会わなきゃいけないんですから、もう耐えられません。
その間、打合せの度に、ニンニク臭い口臭を漂わせられたら、たまったもんじゃない。
長ければ一生の付き合いになるので、さっさと死にたくなるでしょう。
これは口臭だけじゃなく、話し方も同じです。
毎回ムカついていたら、心臓に悪いです。
もしくは、打合せ中に「退屈だ」と思っているところに、隕石が降ってきて死ぬことになっても嫌です。
隕石よりも心臓発作の方が、確率は高いのかもしれません。
ふざけているようですが、急に死ぬというのは誰にでも当てはまることです。
それを、真剣に考えています。
 
だから、依頼を引き受ける基準に、「その人のことを家族と思えるかどうか」という、完全にぼくの主観や好みで選んでいます。
家族が困っていたら助けるでしょう。
相談に乗るでしょう。
お節介を働くでしょう。
 
そうなれるのも、基本的な根底に、相手への好意があるからです。
友人や家族に抱くのと同じ好意を、依頼人にも持つこと。
だから、ぼくの依頼人への関わり方は、ぼくの家族への関わり方と一緒です。
家族に丁寧語で話しているときもあれば、依頼人にタメ口で話しているときもあります。
もう、ごちゃまぜです。
けれど、そうするようにしてからの方が、経済的にも心身的にも快調です。
 
好意的に「〇〇さんに依頼したい」と言われたいのなら、先に依頼人に好意を持つことです。

自分の名前で仕事をするには。

2019.10.15

「ほぼ日」というWEBサイトが好きでよく見るのですが、最近連載していた田中泰延さんの最終回がとても良かったです。
内容としては、「自分の名前で仕事ができるようになるには」ということに関係していました。
これ、ぼくもよく質問されるのですが、「そうなるように、自分を仕向ける」しかないんですよね。
依頼仕事には、「A:〇〇さんにお願いしたい仕事」と「B:とにかく完成したらいい仕事」があります。
自分の名前で仕事をするのは「A」の仕事です。
ですが、コネを持っていない限りは、誰もが最初から、「A」の仕事は依頼されません。
だから、ほとんどの人ははじめ、「B」の仕事の打席にしか立てないのですが、「B」の仕事を「B」のまま完成させていても、「A」の打席には立てないのです。
じゃあ、どうするか。
 
依頼される「B」の仕事に、「A」の要素を含めて「B≧A」として完成させるのです。
これを繰り返していくと、「B≧A」の仕事の依頼が来るようになります。
そして、「B≧A」の依頼には、「A≧B」として完成させます。
少なくとも「A=B」ぐらいの分量にして完成させます。
もう予想できていると思いますが、これを繰り返すと「A≧B」の依頼が来るようになるので、そうなったら「A」として完成させます。
 
「A:〇〇さんにお願いしたい仕事」というのは、〇〇さんの視点や考え方、クオリティが欲しい訳で、なぜこれらを欲しがるかと言ったら、○○さんの視点によって品質が上がり、利益が向上すると思われているからです。
〇〇さん自身もこのことが分かっていたら、「A」の依頼だからといって好き勝手にやれるはずはありません。
自分が望む仕事のやり方を叶える代わりに、相手が望む結果を提供する。
「A」の要素が増えれば増えるほど、この要素も増えます。
 
だから、さっき「Bの仕事はB≧Aとして完成させる」と書きましたが、本当は、仕事の進め方から「B≧A」になるように進めなければいけません。
相手から好意を持たれていない状態で、いきなり自分の考えを披露したところで、「何言ってんの?」と相手にされないでしょう。
むしろ、険悪な関係になります。
だから、自分の名前で仕事をしたいのなら、仕事の依頼から進め方、完成の仕方まで、「依頼してよかった」と、好意を持たれる仕事の仕方をしなきゃいけないってことです。

自然との付き合いかた。

2019.10.14

未だかつてないほど大きな台風が、関東を直撃した翌日。
前日とは打って変わって澄んだ青空。
風は強いけれど、二子玉川の駅から眺める遠くの山は、くっきりとよく見える。
しかし、視線を下に向けると流れている多摩川は、普段よりも水が多く、濁っている。
それでも、前日よりも水が引いたのだろう、陸地に水が引いた跡が残っていた。
 
多摩川が描く、普段と違う光景を、ぼくを含めた大勢の人たちが遭遇していた。
それもこれも、関東に台風が直撃した日が土曜日で、しかも、列車が運休だったために、ほとんどの人が、家や避難先で過ごしていており、増水した多摩川を「見ていない」からだ。
知人たちの話を聞くと、出かけるにしても、雨風が酷くなる前に、近所に買出しに行くぐらいだったようだ。
 
「無理をしない」ということを、日本中の人たちが意識した日だったんじゃないだろうか。
前回の大型台風の日は、平日で、列車も動いていたり、動いていなかったりしていたために、「無理をすれば行けるかも」という義務感と期待が合わさった行動をしていた人も多いらしい。
実際に、ぼくの義兄は途中の駅まで、普段よりも時間をかけて行ったのに足止めをくらい、結局帰宅したと言っていた。
一人一人の困難さに加えて、停電など大きな困難も全国的に知れ渡った。
この教訓が、日本中の生活者や、事業者に活かされたということだ。
 
けれど、それでも河川の決壊の情報を見ると、そのすさまじさを感じざるを得ない。
どうしようもないとも言えるし、被害にあった人の立場で考えたら、なんとも言えない気分になる。
調べてみると、護岸工事を終えてから数年しか経っていない場所もあるようだ。
自然との付き合いかたは、人間の歴史でもある。
諦めることと、もっと工夫すること、おそらく、この両方を保ち続けるのが人間なんだろう。

2種類の慣れる。

2019.10.13

先日、「歳を重ねることは、死に慣れること」と書いたけれど、慣れるにも、「何も感じなくなること」と「そういうものだと認めること」の2種類がある。
死を何も感じなくなることは、どこか避けた方がいい気がしている。
一方で、誰もが死ぬと認めることは大事だと思っている。
認めた後で、だから死なないように医療技術を研究したり、健康寿命を伸ばすようにしたり、心持ちを整える方法を学んだり、人はいろいろな方向へ進む。
医療の専門家以外のほとんどの人は、心持ちをどうするかが、鍵になる。
治療は医者がやるし、健康寿命の付き合いかたもその専門家がいますしね。
彼らと関わりながら、自分の心持ちをどうするか。
それは、周りにいる人の死を経験することで、少しずつ予行練習をすることになる。
または、自分自身が病や怪我をしながら、少しずつ近づいていることを認識していく。
 
幸か不幸か、ぼくは物心つく前に腎臓病になり、子どもの頃はほとんど入院していた。
周りには同じような入院児童がいたのだが、そのときは、自分が普通とは違うことはわからなかった。
小学校に入学してから、自分が他の人と違うということを、親も含め周囲の大人たちから、これでもかと教え込まれた。
お陰様で、人よりもちょっとだけ早く、死について考えることは多くなり、それはつまり、生きることを考えることでもあった。
 
けれど、一番考えるきっかけを与えてくれたのは、高校入学してすぐに届いた、中学時代の友人の訃報だ。
中学まで、大きな病気を抱えているのは、自分一人だった。
だから、突然の知らせに、ぼくは動揺した。
本来なら病気を持っていた自分の方が先に死ぬと、勝手に思い込んでいたぼくは、自分が死ぬことについては考えていたけれど、友人が死ぬことは、まったく考えていなかったのだ。
つくづく、自分勝手な解釈だったと思った。
 
あれから、ことあるごとに、彼のことを考えるようになった。
ありきたりだが、もしも生きていたら、何をしたかったのだろうか。
そうやって思うすべてが、彼はできなくなったのだ。
それが、死ぬということ。
 
周りの人たちが生きている。
死ぬのは本人。
本人以外の他人の中に、彼が存在している。
けれど、この世の中のどこに行くことも、何かを成し遂げることも、何かになることもできない。
ただ、残っている不思議。
そして、残っているものがなくなったら、本当かどうかわからないものとして残るのか、なくなるのか。
親鸞の言葉たちと思っているのは、弟子の言葉でしかないのだから、本当かどうかはわからない。
そういうことになる。
 
そういう意味では、このブログもいつかはなくなるんだ。

天候のこと。

2019.10.12

今年の9月から英語を習っているのですが、11日の土曜日は休講となりました。
ま、いま日本に来ている台風です。
金曜日は夕飯の買出しでスーパーに行ったら、買い溜めなのか商品が届いていないのかは分かりませんが、棚に陳列されているはずの商品が、かなりなくなっていました。
震災のときとまではいかないけれど、卵も肉もなくなっていて、試しに惣菜パンのコーナーを見たら、やっぱり品切れでした。
いや、いいんですけど、「備えあれば憂いなし」と言うけれど、「そんなにかい」とも思うわけで。
停電は大変だったみたいだし、「もしも自分の地域で起きたら…」とも心配したのかもしれませんが、もうちょっと泰然としているとかできないですかねー。
少なくとも、仮に想定している災害が起きたとして、「自分たちは買い溜めしたから良かったね〜」と言いながら、ぬくぬく生活できるのでしょうか。
いや、そうしたいから、買い溜めをするのかな。
ま、商品が届いていないだけかもしれないけれど。
 

話は変わり、11月にドイツを訪れる予定なのですが、現地で着る服を、どうしようか迷っています。
「1ヶ月ほど日本よりも気温が低いこと」は、調べていて知っているのですが、なかなか予想を立てられなかったのです。
そもそも、12月にどれだけ着込んでいるかとか、どの上着を着ていたかなんて、覚えていませんから。
だから、夏には相当悩んでいたのですが、今頃になって、朝、日陰を歩いていると予想がついてくるのです。
37年間経験していることなのに、忘れていることもあるんですよね。
忘れるから悩むんですが、忘れるからまた楽しいこともあるわけです。
秋刀魚の美味しさとか、焼き芋の美味しさとか、おでんの美味しさとか、覚えているようで忘れているから、また食べたくなるんです。
思い出してくるというのは、徐々に輪郭が形作られてくること。
完成された輪郭を思い出すのではなく、おぼろげな部分があるから、また楽しみになるんだ。