2種類の慣れる。

2019.10.13心の健康, 日々のこと

先日、「歳を重ねることは、死に慣れること」と書いたけれど、慣れるにも、「何も感じなくなること」と「そういうものだと認めること」の2種類がある。
死を何も感じなくなることは、どこか避けた方がいい気がしている。
一方で、誰もが死ぬと認めることは大事だと思っている。
認めた後で、だから死なないように医療技術を研究したり、健康寿命を伸ばすようにしたり、心持ちを整える方法を学んだり、人はいろいろな方向へ進む。
医療の専門家以外のほとんどの人は、心持ちをどうするかが、鍵になる。
治療は医者がやるし、健康寿命の付き合いかたもその専門家がいますしね。
彼らと関わりながら、自分の心持ちをどうするか。
それは、周りにいる人の死を経験することで、少しずつ予行練習をすることになる。
または、自分自身が病や怪我をしながら、少しずつ近づいていることを認識していく。
 
幸か不幸か、ぼくは物心つく前に腎臓病になり、子どもの頃はほとんど入院していた。
周りには同じような入院児童がいたのだが、そのときは、自分が普通とは違うことはわからなかった。
小学校に入学してから、自分が他の人と違うということを、親も含め周囲の大人たちから、これでもかと教え込まれた。
お陰様で、人よりもちょっとだけ早く、死について考えることは多くなり、それはつまり、生きることを考えることでもあった。
 
けれど、一番考えるきっかけを与えてくれたのは、高校入学してすぐに届いた、中学時代の友人の訃報だ。
中学まで、大きな病気を抱えているのは、自分一人だった。
だから、突然の知らせに、ぼくは動揺した。
本来なら病気を持っていた自分の方が先に死ぬと、勝手に思い込んでいたぼくは、自分が死ぬことについては考えていたけれど、友人が死ぬことは、まったく考えていなかったのだ。
つくづく、自分勝手な解釈だったと思った。
 
あれから、ことあるごとに、彼のことを考えるようになった。
ありきたりだが、もしも生きていたら、何をしたかったのだろうか。
そうやって思うすべてが、彼はできなくなったのだ。
それが、死ぬということ。
 
周りの人たちが生きている。
死ぬのは本人。
本人以外の他人の中に、彼が存在している。
けれど、この世の中のどこに行くことも、何かを成し遂げることも、何かになることもできない。
ただ、残っている不思議。
そして、残っているものがなくなったら、本当かどうかわからないものとして残るのか、なくなるのか。
親鸞の言葉たちと思っているのは、弟子の言葉でしかないのだから、本当かどうかはわからない。
そういうことになる。
 
そういう意味では、このブログもいつかはなくなるんだ。

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