Archive for 2019.7

感情の損益。

2019.7.21

「商売として存在していること」について、考える機会は多い。
誰かに何かをお願いするとき、お金を払うことなのか、そうではないのかということを考えている。
 
例えば、家事をお願いするとき、家事代行という商売が存在している。
たとえお願いするのが妻であっても、ぼくの分をやってもらうことは、サービスとして商売にできることだ。
料理をすること、車を運転すること、絵を描くこと、写真を撮ること、何かを教えること、相談を受けること、全て職業が存在していて、商売として世の中に存在していることだ。
売れる売れないは別として、お金を払わずに何かをお願いしているとき、自分が受けた恩を、どこで誰にどうやって返していこうか考える。
返すのはお金じゃなくてもいいが、何かをやってもらうというのは、「やってもらった、あー、ありがとう」だけではない。
 
たとえば、ぼくはお金がなかった頃、誰かに何かを教えてもらうとき、相手の想像を超えるぐらい努力して、成長した姿を見せていた。
お陰で、教えてくれた人はみんな驚いてくれたし、「ここまでやるとは思っていなかった」と喜んでくれた。
教えたくれたことで今のぼくがあるのだから、プロとしてのきっかけの話をするときは、彼らと関係がなくなった今でも、その人たちのお陰だと、必ず伝えている。
そして、ぼくがノウハウをさらけだすのも、恩送りをしたいからだ。
 
仕事の話ができる人というのは、似たようなことをしているし、考え方が似ている。
「恩」というのは、ひとつの感情であり、感情にも利益と損失がある。
嬉しい、楽しい、助かったは利益になるし、やってあげたのにと相手に思われたら、感情の損失を与えたことになる。
人間はこの感情の損益を、無意識に感じ取る。
どんな関係であれ、無料でやってもらうというのは、実は無料ではない。
誰しもが恩を受け、与えている。
違うのは、受けるのが多く、損失が多い感情の赤字になっているのか、与えるのが多い感情の黒字になっているかの違いだ。
若いうちは教えてもらうことが多く、恩を受けることが多いので、感情の赤字が多いが、それは出世払いとして、直接恩返しするのでもいいし、他の誰かに恩送りをしてもいいんだ。
そうすると、いつの間にか頼られる人となり、感情の黒字化が起きている。

褒められてこなかった人の方が、アイデアがある。

2019.7.20

展示会に来るといつも思うことがある。
いまだに日本企業は、「形や絵柄を変えること」と「製品の品質を高めること」で勝負をしていて、「アイデア」で勝負していない。
アイデアというのは「1+1=3以上」というものだ。
 
日本の技術力は既に高いことは世界が知っているし、ひとつの技術を高めたマスターピースはすでに巨匠が作ってくれている(たとえば椅子を作る場合、誰が正攻法のデザインで、フィリップ・スタルクやジャスパー・モリソンたちと競おうというのだろうか)。
それに、ネンドの佐藤オオキさんも著書で書いているが、白いものをさらに白くするのは困難だが、白いものを白く見せるのは簡単だ。
黒い壁の部屋に白いものを置けばいい。
これがアイデア。
 
そして、これを思いつけないのなら、デザインという仕事は止めた方がいい。
こういうアイデアは、学生時代では教師から褒められることはないが、怒られても、こういう悪知恵とも言えるアイデアを続けてきた奴が就く仕事がデザインだ。
だが、展示会でムカつくのは、アイデアで勝負していない企業のデザインが、プロがやっている仕事ということ。
つまり、デザイナーが関わっているのに、アイデアで勝負しない前途多難な道を、クライアントに提案しているということだ。
 
しかし、どうしてこんな戦略しか出来ないのだろうかと考えてみると、ひとつの思想に行き着く。
「いいものは売れる思想」だ。
日本人はこの思想に取り憑かれていると言えるし、地方の工場などに行くとこの思想は特に強い。
けれど、いいものも売れないのだ。
価格が邪魔をしていたり、販路が邪魔していたり、認知されていなかったり、そもそも生活者が必要としなかったり、他の製品で十分だったりする。
商品の良し悪しに関係なく、売れない要素の方が多いのが現実だ。
だから、品質のいいものもを作るだけでは売れない。
品質が悪いのは論外だが、品質が良くても売れないことを認めない限りは、「いいものは売れる思想」からの脱却はできない。
価格が邪魔をしてるなら、価格を下げられるのか、その価格で欲しいと思わせるのか。
認知されていないのが邪魔なら、どこにどうやって認知させるのか。
これだけでも、商品にかける戦略は変わってくる。
 
料理がこぼれない器なら、「どんなときにこぼれて欲しくないか」を生活者にイメージさせなきゃいけない。
イメージしやすいメディアは何なのか、決めなきゃいけない。
面白さは必要なのか、ストーリーの方がいいのか。
シリーズで作れる商品なのか、単発の商品なのか。
伝え方、伝える内容、変更しなきゃいけないことはたくさんある。
 
悪ガキだった人、大人から褒められてこなかった人が、この仕事には必要だ。

アートワークとクライアントワークの違い。

2019.7.19

昨日、インスタグラムに「アートワークの方が疲れる」と書いたが、この比較になっているのはクライアントワークだ。
もちろん、クライアントワークが簡単と言っているのではない。
だが、その違いを考えると、「答えのなさ」がアートワークの方が疲れる理由になるんだと気づいた。
 
クライアントワークは、どんなに難しくても「クライアント企業の利益を上げる」という答えが存在する。
これがクライアントワークの目的と言ってもいいだろう。
営業利益を上げるのか、純利益を上げるのか、株価を上げるのか、業界での立ち位置を上げるのか、満足度を上げるのかなど、上げる利益は明確だ。
クライアントワークの難しさを挙げるのなら、この目的の擦り合わせと、タイミングだ。
 
たとえば、ブランディングの場合で利益を上げようとするのなら、タイミングは「一生」になる。
ブランディングとは、積み木で建築物(利益)を作るようなもので、土台作りから建てている間、そのどれもがとても長期間となる。
そして、長期間やり続けることで、いつの間にかお客を呼ぶような存在になっているのが、ブランドが出来上がる仕組みだ。
たとえば、サクラダファミリアやピラミッドなんかをイメージするといいだろう(どっちも行ったことがないけど。それと、ガウディの最期を知ると、複雑な気持ちになるが)。
しかし、築き上げたブランドが崩れるのは一瞬だ。
物理的な破壊もあるだろうが、不正問題でも、築き上げたブランドは地の底に落ちる。
食品系の大手企業などの例が思い浮かぶだろう。
ざっくりとだが、これが、ブランドを作ることで利益を上げるということ。
 
けれども、ほとんどのクライアントは「施策をすれば結果が出る」と思っている。
つまり、最低でも3年続けて、ようやく芽が出始める場合でも、何かを作ったり、半年ほどで成果が出るものだと思っていることが多い。
リニューアル案件はこの誤解が多い。
クライアントワークの難しさは、ここでの意識変化だ。
意識変化の途中で、意思決定者や担当者が変わると、相手のノウハウはゼロに戻るので、また最初からやり直しとなる。
だから、担当者がころころ変わる事業は、大抵うまくいかない(これは大手の事務所でも同じようだ)。
作ることで言えば、「売る」ことには法則があるので、あまり難しいことではない。
 
一方で、アートワークの難しさは「答えのなさ」だ。
一応、「今まで見たことがないものを見たい」という答えはあるが、経験を積めば積むほど「見たことがないものってなんやねん」ということになる。
見たことがなくても、美しさが欠けていたら、感動はしない。
だから、「今まで見たことがない美しさ」を求めていると言える。
「そんなもんあるんかい」という気持ちになるが、この「見たい」欲動に突き動かされて、頭と体が回転していく。
それが、疲れるってことなのだ。

「できる」と「必要」は違う。

2019.7.18

この2~3年で気づいたことに、「作るのにはスペースが必要」ということがある。
10年ほど前、高さ2.3メートル、横幅10メートル超の作品を4.5畳間で制作してから、「工夫をすれば、なんでも作れる」と分かったのだが、「工夫をし続けるのは極めて困難」であることに気がついていなかった。
どんな仕事も考えることの連続だし、壁を乗り越えることの連続だ。
だが、工夫が前提になると、困難も前提となる。
そのうちに、作りたいのは困難であるかのような状態になってしまう。
これに気がついていなかった。
「できる」と「必要」は違うってことだ。
目が衰えたら眼鏡が必要だし、体が衰えたらアシスタントが必要。
それと同じように、作るのにはスペースが必要。
 

失敗の経験値

2019.7.17

仕事部屋の椅子に座りながら目薬を使い、片付ける時に目薬を落とした。
落ちた目薬は、机の下の奥に転がって止まった。
ぼくは咄嗟に裸足だった足を伸ばし、目薬を手前に来るように蹴って、その後、かがんで拾った。
 
作法が汚いと思う人もいるだろうし、同じことをすると思う人もいるだろう。
そう思ったとき、あることに気がついた。
 
「机に頭にぶつかることが、勝手に思い浮かぶようになっている」
 
大したことじゃないのはわかっている。
だが、椅子から降りて、机の下に潜り込んで目薬を取った後、机に頭をぶつけることを避けようとしている。
もしくは、頭をぶつけないように、慎重に意識して拾うことを、面倒臭がっている。
 
机ではなくても、頭より高い位置にある戸棚の扉が開いているとき、頭にぶつかる未来をけっこう想像している。
咄嗟に想像して、ぶつからないようにして扉を閉める。
この想像が勝手に思い浮かぶには、頭にぶつけるという経験をしなきゃできないのだろう。
実際、子どもの頃はこんな想像していなかったから、頭をぶつけることはけっこう多かった気がしている(他の人はどうか知らないが)。
「ぶつける→痛い→不快」という経験が、ぼくに想像させる力を与えてくれたと言っても言い過ぎではない。
足で物を引き寄せるのも、当たっても痛くないものを作るのも、当たって痛い経験をしないとやろうと思えないだろうね。
 
ちょっと大げさに言うと、仕事でも私生活でも、リスクを回避できるようになるのって、失敗を重ねないとできないことだ。
リスクを想像して身動きが取れなくなるのは、失敗をしていないのにリスクを想像するからじゃないだろうか。
しても平気な失敗と、致命的な失敗の区別がつくのは、失敗の経験値によるものだ。