Archive for 2019.3

たまには専門的なことを。

2019.3.27

たまにはテクニックに関することも書いてみようと思います。
ま、ぼくの場合ってことですが、最低限、これができなきゃ仕事にならないというレベルでもあると思います。
 
「収差について」
人間の眼は左右の眼球の形を足しているので、人間の視界は左右に行くほど巻いて、ボケながら消える。
だから、写真においてレンズ収差を調整しただけでは膨張したように見えてしまうときがある。
だから、やり過ぎなぐらい調整してはじめて、平面は視界に近くなる。
 
「ポスターやチラシについて」
四角の中にものを入れる際は、三角が生まれるように配置していく。
四角だけでものが配置されると、堅苦しく窮屈になる。
だから教室というのは堅苦しい印象になり、厳粛に学ぶ場所になる。
学生帽も学ランも、丸みのある人間の体を四角くする。
厳粛さが必要なことであれば、四角で配置をつくっていく。
しかし、そうではない場合、四角の中で三角を生み出していけばいい。
どれだけ三角を生み出せるかが、勝負になる。
四角の中にある三角は、品格と緊張感、遊びを生み出す。
遊びを増やせば増やすほど三角がなくなるので、カオスの空間になる。
四角なのか、三角なのか、多角なのか。
デスクトップでも、紙でも、ファインダーでも、土地でも、四角の中でものを扱うときは、配置する角数を気にする。
 
「撮影について」
1:水平垂直を崩さない。
2:主役をズドンと真ん中に持ってくる(愛しているぜ、ベイベー)。
3:飽きたらスススーっとずらす(浮気しちゃうぜ、すまねー)。
4:主役を脇役(背景)が邪魔しない。
5:脇役がどいてくれないときは、自分が動くか、ボカすか、ちょんぎる。

感じるから動く。

2019.3.26

首を揉むと、ゴリゴリ鳴ります。
「あぁ〜、首が凝っているな〜」と感じて、自分で揉んでいます。
揉むからゴリゴリ鳴るのか、ゴリゴリ鳴るように揉んでいるのかは、自分でもよくわかりましぇん。
医者に何か言われたわけでもなければ、何かを見聞きしたわけでもないのに、凝っていると感じれば、自分で揉むんです。
首を回転させる人もいるでしょうし、肩を回す人もいるでしょう。
腕を高く伸ばす人もいるでしょうし、目を閉じて深呼吸をする人もいるでしょう。
これ以外にも凝っていると感じたら、何かする人はいます。
けれど、この人達のすべてが、何かを見聞きしたり、医者から何かを言われているわけでもないんですよね。
体の不調を感じ取って、体を動かしているんです。
たとえ、医者から対処法を教わった人がいたとしても、「一時間に五分間ストレッチをしてください」という理由でやっている人って、リハビリぐらいでしかないでしょう。
その人達でさえ、不調を感じないのに、一時間に五分程度のストレッチを続けられる人というのは、あまりいないと思います。
不調がないのに続けているのなら、不調がないのに不安があるってことだから、それはまた別の問題になります。
そうではなく、「何かをする」というのは、本来「何かを感じた」から行うものです。
ビクッと跳ね上がるのも、笑顔で涙をこぼすのも、驚いたり、感動したりと体や心の感じたものが、動きに出ているのです。
「動く」というのは、本来「感じる」からなんです。
「感じなければ」、「動かない」ってことです。
笑うから楽しいっていうのもあるけど、楽しくなるまで笑い続けるのって、けっこう大変です。

予感。

2019.3.25

久し振りに筋トレをした。
日曜日の昼間、昼寝をした。
本を読んでいたはずなのに、寝落ちしたようだった。
途切れ途切れの夢と現実。
起きようと思ってからも、しばらくはそのまま。
ずぅっと続いていた不調が、裏返る予感がしている。
筋トレもそのひとつ。
作品もそのひとつ。
血が起きてきたな。
 

あんまり言わないようにしているが、スーパーで買った野菜が、ひどく不味い。
水っぽく、気持ち悪い。
腐っているわけではないのに、「あぁ、これは腐るな」とわかる。
そういう野菜は、グリルやおひたしにできない。
ひどく不味いから。
美味しい野菜は枯れる。
この時期、収穫がなくなるから、けっこう辛い。

まずは。

2019.3.24

「飛行機や電車を乗り継いでお客さんを呼び込まなきゃいけない店舗なのかどうか」「飛び込み客が多いと困る店舗なのかどうか」の2点でやらなければならないことは変わる。
多くのオーナーが間違う。
どこで聞きかじったのか知らないが、多くのオーナーが「一番、金のかかること」をしなければならないことだと思い込んでいる。
「ブランドを作らなきゃいけない」「ブランディングをしなければならない」だと?
お客さんのほとんどが近隣住民の飛び込み客である一般的な店舗が、まず大事にしなきゃいけないのは、近所の人から愛されることだ。
いや、すべての店舗でまず大事なことだ。
その後で、冒頭の条件に沿って、やらなきゃいけないことが決まってくる。
着実に事業の歴史が積み重なって、はじめてブランドを感じてもらえる。
観光地だってそうだ。
京都だって、屋久島だって、積み重なった歴史に人は足を向ける。
楽しさをウリにするテーマパークとはやるべきことが違う。
まぁ、今日はブランドの話じゃないから、この話はここまでにするが、「人に愛される店」というのは、「人が愛するものとは」が分からない限り、どんなに金をかけても出来はしない。
メッキが好きな人もいるけどね。
最近の新規の相談が「いままでのデザイン事務所と手を切りたい系」が多いのは、どこで聞きかじったか分からないことを吹聴する同業者が多いってことだろう。

一人で考えて、一人で作って。

2019.3.23

イチロー選手の引退会見を読んでいて、「最後までイチロー選手なんだな」というのと、ぼくらの気持ちをさえも代弁してくれているような心地になった。
正確な言い方は違うと思うが、「達成感や満足感と、楽しいのとは違う。」というようなことが書かれていて、畏れ多くも今の自分と重ねてしまった。
ぼくもイチロー選手のように、熱中するものを見つけて、その業界に入ってプロになった。
その後、12年が経って、この間、たくさんの達成感や満足感を得てきたけれど、楽しかったのは、2007年までだったと気づいた。
いや、気づいていたけれど、どこかにまだ楽しむ余地があるんじゃないかと、もがいていたんだ。
ぼくらの仕事はスポーツ選手に例えられることも多く、ぼくらもずぅっと現役でいることは難しい。
50歳を超えて現役バリバリのように見えるのは、そうやって見せるのが上手い人だったりする。
正確には、一人で考えて、一人で作ることは、肉体の衰えとともに難しくなる。
これを「チームで」とか「別の役割がある」とか言って、ごまかしながら続けているだけだ。
そうじゃなくても、作るものに古さが臭いはじめる。
三十代後半のぼくでさえ、衰えを考慮しながら、どうやって成長し、どうやって貢献できるかを試行錯誤しながら現役選手を続けている。
これは、プロになった当初から試行錯誤している。
右手が動かなくなった時、腰が動かなくなった時、いろいろやっている。
イチロー選手が「監督はない。人望がない。」と仰っていたけれど、ぼくが人を雇わないのもそうだ。
外で教える分には構わないけれど、自分の従業員となるのは、絶対にやめた方がいいと思っている。
今は、プレイングマネージャーのように振舞っているけれど、そうあれるのも、ぼくが現役選手だからだ。
一人で考えて、一人で作るからできること。
あと何年できるだろうか。
イチロー選手の存在は、同時代を生きている人の中でとても影響が大きかったし、これからも大きいんだろうな。
ありがとうございました、と言いたい。