Archive for 2019.2

すぐに成果はでない。

2019.2.18

日記のようなものを書きます。
日曜日は、午前中から昼過ぎまで、畑で土づくりをしていました。
その後、家に帰ってきてお昼を食べて、定額配信のテレビを見た後に、夕飯の買い出しに行き、鶏ガラを煮出しながら軽く仕事をして、出汁が取れる時に合わせて、スープのタネを作りました。
夕飯後は、革靴を磨いて、再び配信テレビを流しながらこれを書いています。
 
畑の土作りも、スープを作るのも、靴磨きも、本領が発揮されるのは時間が必要です。
作業をした直後に、成果がマックスになるというような仕事ではないんですよね。
 
すぐに成果がでない仕事と考えて、ぼくらの仕事も同じだなぁと、しみじみどっかのおじいさんのように思っていました。
ロゴでも、商品でも、完成した直後って、ぼくも依頼人も興奮しますが、じゃあ、その成果っていきなり出るもんじゃないんです。
そのクオリティ、そのトーン、その考え方を、ながぁく続けながら、ちょっとずつ改善していくこと。
そうすることで、いつの間にか老舗と呼ばれるほどになるんです。
老舗と呼ばれるまでの間で、ちょっとずつ感じるものが成果です。
そして、老舗と呼ばれるようになってからも、続けることが事業です。
ようやく、当たり前になっていく。
 
「風邪をひいたときにはポカリスエット」とか、「龍角散を舐める」とか、このレベルに至るのに、一朝一夕ではないはずです。
老舗って、事業が続いているってことなんだぜ。

ひよっこ。

2019.2.17

金曜日から歯列矯正の装置をつけています。
年々、口の中に疲労感を感じるようになって、顎関節もガタガタ鳴っていたので始めた治療ですが、クリニックの方々から「痛いですよ」「不快ですよ」とだいぶ脅されたので、思っていたほどの痛みや不快感を感じていないです。
これからもっと酷くなるのかもしれませんがねー。
先に言っといてもらったためか、心の準備がしっかりとできていたような気もします。
弾力や硬さのある食べ物は、なるべく小さくして奥歯で噛むようにしつつ、口に運ぶ前にも慎重になったりしています。
だから、噛んだときに思いがけない痛みが走らないのです。
おそらく、この食べ方に慣れたときが、一番痛いのかもしれません。
油断ってやつですね。
ただ、思っていた以上に、食べるのが遅くなって、食事をして栄養を摂っているのに、食事が終わったら疲れ果てています。
いやはや、これをやり遂げた人達はすごいっすわ。
あっしなんて、まだまだひよっこです。

作ったら寝かせる。

2019.2.16

仕事をし続けていると書くネタもあまりないなぁ、と思います。
なので、仕事のことを書き連ねていきます。
 
作業を進めているとき、とても大事にしていることのひとつに「寝かせる」があります。
いいと思ったところで手を止めて、しばらく別のことをします。
ロゴやキャッチコピーの場合は、壁に貼って、数日は置いておきます。
時間が許すなら数週間寝かせることもあります。
寝かせている間に、「いい」と思っていたものにもアラが見つかったり、適していないと気づくことがあります。
 
これは、即座に気づくってことはないです。
気づく速度をはやめることはできるかもしれませんが、人間というのはやったらやった分だけ「いい」と思いたくなるものです。
だから、以前にボツにしたけれど、磨き方を変えて復活採用、なんてことももちろんあるのです。
こういうのは、寝かさないとできないことです。
格好良く言えば「推敲」なんだけどさ、ゴロンと横になって寝たいんじゃないの?なんてね。
作品もさ、生きていると思うんだよね。

最初の欲望とは。

2019.2.15

ランチ難民になるときがある。
お昼ご飯を食べるお店がなかなか決まらずに、彷徨いつづけることだ。
誰が最初に言ったのかはわからないが、社会人になって、いつのまにか自分でも「ランチ難民」という言葉を使うようになった。
 
お店が決まらない理由はたくさんある。
定休日だった、席が空いていなかった、気に入らなかった、などなど。
こういう理由が重なると、いつのまにかランチ難民になる。
そして、理由のうち、「気に入らなかった」が最も後悔する。
昨日がそうだった。
 
中華が食べたいと思いながら妻を駅まで送り、さらに歩いて駅にも自宅にも距離があるお店にするか、駅から戻って自宅を通り過ぎた近所のお店にするかを悩んで、後者を選んだ結果、定休日だった。
しかし、この選択肢の中に本当は、駅と自宅の間にもう一軒あったのだ。
以前食べて、お店の人の雰囲気が合わなくて、候補から外していた。
 
その結果、ぼくはランチ難民になり、昼食を食べるお店を探しに寒空の中、彷徨いつづけた。
蕎麦屋は満席。
唐揚げ屋は弁当で調理の間、外で待つ。
家の前の喫茶店は火曜日も行った。
他の喫茶店も今日の気分じゃない。
候補から外した店に行くのは馬鹿らしい。
自炊は嫌だ。
 
ここまでくると単なる駄々っ子と変わらない。
いい理由ではなくて、嫌な理由しか見つからなくなる。
こうなると、最初の「中華が食べたい」という欲望に、「気に入る店で食べたい」という欲望が加わっていることに気がつかなくなるんだ。
苦しくなるのは、自分のせいでもあるんだよな。

「自分の弱さを知ること」と「弱い人になること」の違い。

2019.2.14

昨日は「自分の力を伸ばしてきた人同士が出会うことで起きる化学反応。」ということを書いた。
ちょっと考えていたんだけど、「弱い人」というのは、ごちゃまぜの土俵に上がれるのだろうか。
いままでだったら、弱い人というのは保護される対象だった。
いまもそうだろう。
むしろ、「自分は弱い」と言っちゃった方が得をすると考える人は、宣言しやすい世の中になった。
けれど、考えてみると、自分で自分のことを「弱い人」と宣言して何かを得てしまうということは、プレーヤーにはなれないことも意味している。
病気や怪我をしたら休むし、保護を受けた人にはそれなりの制限がかかってしまう。
保護が手厚くなれば、その分、やっかみも増える。
少なくとも、「自分の弱さを知ること」と「弱い人になること」は似ているようで、まったく異なる。
力を伸ばすということは、その分、自分のできないことや弱さを知ることになるけれど、そういう人は強い。
だから、ごちゃまぜになっても、仲間の強さや弱さを慮って、ごちゃまぜの一員になれる。
ということは、ごちゃまぜにも、一定の基準のようなものがあるんだ。
交差点を考えてみても、信号を守れなければ、交差点が使えないように、ごちゃまぜの土俵に上がるには、それなりの力が必要なんだ。
お客さんになるにもお金は必要だし、土俵に上がるには力が必要。
すると、注文だけつける人は、どこに居場所があるんだろうか。