「自分の弱さを知ること」と「弱い人になること」の違い。

2019.2.14日々のこと

昨日は「自分の力を伸ばしてきた人同士が出会うことで起きる化学反応。」ということを書いた。
ちょっと考えていたんだけど、「弱い人」というのは、ごちゃまぜの土俵に上がれるのだろうか。
いままでだったら、弱い人というのは保護される対象だった。
いまもそうだろう。
むしろ、「自分は弱い」と言っちゃった方が得をすると考える人は、宣言しやすい世の中になった。
けれど、考えてみると、自分で自分のことを「弱い人」と宣言して何かを得てしまうということは、プレーヤーにはなれないことも意味している。
病気や怪我をしたら休むし、保護を受けた人にはそれなりの制限がかかってしまう。
保護が手厚くなれば、その分、やっかみも増える。
少なくとも、「自分の弱さを知ること」と「弱い人になること」は似ているようで、まったく異なる。
力を伸ばすということは、その分、自分のできないことや弱さを知ることになるけれど、そういう人は強い。
だから、ごちゃまぜになっても、仲間の強さや弱さを慮って、ごちゃまぜの一員になれる。
ということは、ごちゃまぜにも、一定の基準のようなものがあるんだ。
交差点を考えてみても、信号を守れなければ、交差点が使えないように、ごちゃまぜの土俵に上がるには、それなりの力が必要なんだ。
お客さんになるにもお金は必要だし、土俵に上がるには力が必要。
すると、注文だけつける人は、どこに居場所があるんだろうか。

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