Archive for 2019

脱欲望のすゝめ。

2019.12.21

最近は欲望の減らし方について話をすることが増えているが、欲望を減らせるかどうかは、センスとしか言いようがない。
年齢を重ねて高齢者になったとしても、欲の深い人はいるし、若くても欲望のコントロールが上手い人もいる。
一応断っておくと、数年前に言われたサトリ世代の欲のなさとは違う。
彼らは十分欲望を持っている。
ちなみに、「社会に貢献したい」というのも欲望だ。
 
古典を読んだ方がいいとぼくが勧めるのは、振るいにかけられて残っている古典には、必ずと言っていいほど、欲望を抱く無意味さが書かれているからだ。
ぼくのバイブルになっている『方上記』もそうだし、『平家物語』だってそう。
高僧としての欲望を減らし続けた親鸞の浄土真宗の広まり方を見てもそうだ。
 
欲望を減らせば減らすほど、事業というのは上手くいくようにできている。
なぜなら、事業は人間の営みであるからだ。
特別、テクノロジーの事業じゃないと思われている、例えば農家だってそうだ。
自然を相手にしているが、それは人間の営みであり、農業が苦しいのは、そこに欲望があるからだ。
そもそも自然には、「農」も「業」もなかった。
「地球をよくしたい」というのは、十分過ぎるほどの欲望であり、立派なことだと思いたいのは、欲望のある人間だけだ。
 
仕事に貴賤はない。
広まるべき事業なら、欲望を減らせば広まる。
歴史を顧みたら、そのようにできていることが分かる。

『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』はたのしい。

2019.12.20

英語を読むのはおもしろい。
今年に入って英語を習っているのは前に書きましたが、自習で何をやっているかというと、NHKから出版されている『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』を声に出して読んでいます。
これがね、楽しいんですよ。
一話五分の話が毎日あって、イソップ童話や落語、ショートストーリーなど幅広く英語で読めるんです。
アプリもあって、リスニングもできます。
ぼくのやり方はこうです。
「全文を通しで聞く → 一文聞いて、音読する → 全文を通しで音読する」
内容が難しくないので、感情を乗せやすいんです。
妻は書き取りをして学ぶタイプみたいなのですが、ぼくは読むのが楽しい。
さっき気づいたのですが、これ、絵本を読んでいる感覚と似ています。
短い文章を声に出して、感情を乗せて読む。
これって、絵本の読み聞かせそのものですよね。
そりゃあ、楽しいわ。
英語が趣味になっている。
 
昔はぼくも「仕事のために英語を習った方がいいだろう」と思って、毎日英単語のCDを聞いていたりしたけれど、なかなか続かないんです。
今じゃ、自習管理をコーチングしてくれるスクールまであるみたいですが、「仕事のため」っていうのは楽しみがないから、結局はつまらないんですよね。
楽しいから好きになって、好きだから趣味になって、趣味だから続けて、続けたから得意になって、得意になったから人に貢献できて、貢献できるから仕事になる。
この順序が崩れているのが、今の日本の仕事のあり方なんでしょうね。
英語、たのしいよ。

アイスブレイクの上手い人。

2019.12.19

仕事ではじめての人と会うとき、その人がどんな人なのか、ある程度は目を通す。
少なくとも、何をしてきた人なのかはわかるはずだ。
今の世の中で、仕事をしていて、まったく素性のわからない人という方が珍しいのではないだろうか。
価値があれば、インターネットという網のどこかで必ず引っかかるものだ。
そういう世の中になって、下調べをしてきているのかどうかの判断が、明確に表れるようになった。
詳細に調べ尽くして知識をお披露目する人、まったく調べずに話が展開しない人、ある程度調べた上で、さらに会話で発展させようとする人。
大きく分けて、この三者になる。
正直に言うと、最後の「会話で発展させようとする人」でない限り、無駄な時間になる。
 
一方で、「会話で発展させようとする人」はアイスブレイクが上手い。
アイスブレイクというのは、本題に入る前に、雑談などで参加者の緊張をほぐすことだ。
 
デザイン事務所に務めていた頃、クライアントからこれを教わった。
大手文房具メーカーのクライアントで、血気盛んなぼくを含めたデザイン事務所の面々を前に、その人は趣味の野球の話を 、必ずと言っていいほどしていた。
そして、自分の好プレーの話をするのではなく、下手くそなプレーの話をして、場を笑わしてくれるのだった。
けれど、血気盛んなぼくは、本題モードで鋭い目つきをしながら、その人の野球ネタを聞いていたようで、時折、話の種になっていた。
いや、話の種に「してくれて」いたのだ。
そうすることで、デザイン事務所の面々も、ぼくを仕事熱心な若者として売り込むことができる。
実際に、ぼくの稼働時間は凄まじいものがあったし、たくさん貢献していたが、今思えば、たくさんの年上の方々の温かい土俵で、成長させてもらっていたのだ。
 
「写真だったらあの人」「デザインだったらあの人」「料理だったらあの人」というように、色んなことに師匠のような人を勝手に当てはめているけれど、会話だったら間違いなくあの人だ。
連絡先もわからないから、あの人ともう一度会うこともないだろうけれど、度々、あの人の進め方を想像する。
あの人から学んだものは、かなり多いんだよな。

日本の議論は「discussion」ではない。

2019.12.18

最近お客に話すことが、デザインとかアートとかよりも先に「欲望をなくすこと」になっている。
例え話で「風邪の症状で医者に行って、『この後ジムに行ってトレーニングしたいんです』や『日課の寒風摩擦をしたいんです』と話す人はいませんよね。仮にいたとしたら、『安静にしといてください。もしもどうなってもいいのなら、お好きにどうぞ。会計を済まして、処方箋をもらってください』と言われるでしょう」と言うと、「そんな患者いたら呆れますよ」と笑い話になるが、往々にしてクライアントというのは、こういう欲望をつらつらと話すものだ。
治療も予防診療も、事業も同じ。
まずは欲望をなくして、聞く耳を持つこと。
 

今日の英語の勉強で、日本のディスカッションが上手くいかないのは、「argument」だからだと気づいた。
違いはこうだ。
「discussion」であれば、正否や賛否はどうでもよく、ただ意見を交えることになる。
しかし、「argument」であれば、理由を示しながら正否や賛否を問い、相手を説得する議論になる。
そして、「argument」は「言い争い」や「口げんか」という意味にもなる。
「discussion」の意味を日本人がイメージすると、英語における「conversation」であり、「打ち解けた会話」となる。
つまり、日本人には「conversation」と「argument」があり、「discussion」がないのではないだろうか。
「〇〇について議論しよう」と言われたとき、ぼくは「話し合おう」と言い直すことが多い。
これは、議論をすれば、自分の考えの正当性を披露するだけになり、相手の意見など実は聞いていないことが往々にして見受けられるからだ。
相手に何かを話させただけでは、相手と会話したこととイコールにはならない。
相手に何か話すことを求めた以上、相手の支払ったコストに対して、聞いた者は何かを支払うことをしなければ、話してくれた相手は何も話さなくなるものだ。
「議論をしよう」というのは、仕事をしてそうで格好いいのかもしれないが、議論が多い会社ほど危ういものだ。

選ぶのは試されること。

2019.12.17

選択肢があってその中から選ぶとき、選ぶ方が試されているときというのは、けっこうあります。
選んでいるのは自分なのだから、自分の方が優位に立っているように思えるけれど、選んだもので自分の考えのレベルや器が、計られるようなときです。
 
ぼくがこれを意識したのは、『ドラゴンクエストV』というゲームです。
劇中、主人公の結婚相手を選ぶのですが、一人は幼馴染、もう一人は富豪の娘。
曖昧な記憶を思い出すと、たしか、富豪の娘さんを選ぶと、お金や装備品がもらえるのですが、その娘は最後まで旅に参加しなかったり、子どもたちの髪の毛の色が青くなるんです。
けれど、広告などで使用される子どもたちの髪の毛の色は金色で、これは幼馴染を結婚相手に選んだときの色です。
そして、幼馴染は最後まで旅に参加し、結婚後の旅はけっこう長い。
最後のレベル上げや、隠しダンジョンも含めると、本当に一生の長さになります。
だから、初めは幼馴染を選んじゃって、二度目をやるときに富豪の娘さんを選びます。
これが、ぼくの中で初めて「選択で自分が試されるのを意識したとき」じゃないだろうか。
 
二度目の「選択」を強く意識したときは、浪人時代です。
この時に教えてもらったことが、今でも頭に残っていますし、今日の話の大元になっています。
現代語の授業で、大学受験の採点方法を教えてもらったんです。
その先生によると、すべての問題は独立してあるのではなく、一連の問題がすべて正解しないと、内容を理解していないとみなされ、一連の解答が不正解となる、とのことでした。
例えば、「問4」「問6」「問8」の三つが関連している問題の場合、その三問はすべて正解しないと点数が得られず、すべて不正解になるということです。
愕然としました。
けれど、これは新大陸を見つけたかのような、大きな発見でした。
その先生の言ったことが、実際に大学受験の採点方式で、使われているかどうかはさておき、問題を提示する側からしたら、あてずっぽうで正解する確率は下げたいものです。
さらに、受験者数から合格者を振るいにかけるためには、合格者と不合格者の点差が離れている方が、本来なら必要な人材を不合格にしにくくなる。
つまり、あのときの予備校講師が話してくれたことは、極めて妥当なことです。
事実、ぼくはこの先生の授業を受けた後、国語の模試は全問正解や一問間違いが頻発し、偏差値をぐんぐん上げたのでした。
 
ぼくの仕事は、依頼人に選択肢を与えることが多いのですが、ただ選択肢を出すのではなく、どれを選ぶのかで、その人のことや、今後のことなど、たくさんのことを計っています。
ま、その内容は言わないですけどね。
言えることがあるとすれば、どれを選んでもいいと高みにいると、多くのものを失うんだろうね。