日本の議論は「discussion」ではない。

2019.12.18ビジネスの健康, 日々のこと

最近お客に話すことが、デザインとかアートとかよりも先に「欲望をなくすこと」になっている。
例え話で「風邪の症状で医者に行って、『この後ジムに行ってトレーニングしたいんです』や『日課の寒風摩擦をしたいんです』と話す人はいませんよね。仮にいたとしたら、『安静にしといてください。もしもどうなってもいいのなら、お好きにどうぞ。会計を済まして、処方箋をもらってください』と言われるでしょう」と言うと、「そんな患者いたら呆れますよ」と笑い話になるが、往々にしてクライアントというのは、こういう欲望をつらつらと話すものだ。
治療も予防診療も、事業も同じ。
まずは欲望をなくして、聞く耳を持つこと。
 

今日の英語の勉強で、日本のディスカッションが上手くいかないのは、「argument」だからだと気づいた。
違いはこうだ。
「discussion」であれば、正否や賛否はどうでもよく、ただ意見を交えることになる。
しかし、「argument」であれば、理由を示しながら正否や賛否を問い、相手を説得する議論になる。
そして、「argument」は「言い争い」や「口げんか」という意味にもなる。
「discussion」の意味を日本人がイメージすると、英語における「conversation」であり、「打ち解けた会話」となる。
つまり、日本人には「conversation」と「argument」があり、「discussion」がないのではないだろうか。
「〇〇について議論しよう」と言われたとき、ぼくは「話し合おう」と言い直すことが多い。
これは、議論をすれば、自分の考えの正当性を披露するだけになり、相手の意見など実は聞いていないことが往々にして見受けられるからだ。
相手に何かを話させただけでは、相手と会話したこととイコールにはならない。
相手に何か話すことを求めた以上、相手の支払ったコストに対して、聞いた者は何かを支払うことをしなければ、話してくれた相手は何も話さなくなるものだ。
「議論をしよう」というのは、仕事をしてそうで格好いいのかもしれないが、議論が多い会社ほど危ういものだ。

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