Archive for 2019

得体の知れないものへの不安。

2019.8.3

たまーに、ぼくの病気のことを知っている人とその話題になると、ぼく自身が感じている軽さと、相手の感じている重みのギャップに、「あぁ、そうだった」と気づく。
昔から、当の本人は軽い気持ちだったはずだ。
いや、「当初は」軽い気持ちだったのだ。
それを、重くしたのは、紛れもなく「周囲の大人」だ。
小学校に上がるまで、ぼくは入院児童で、病院と実家を行ったり来たりしていた。
だから、幼稚園にも年長の頃から通ったが、ほとんど通えていなかった。
また、その頃は病気のことなど、気にしていなかった。
 
しかし、小学校に上がり、ぼくは自分が他の子と違うことを証明させられた。
新年度、新しいクラスになると、ぼくは教壇の前に呼ばれ、クラスメートに向かって自身の病気について説明させられた。
これを毎年だったか、二年に一回のクラス替えのタイミングだったかは覚えていないが、新年度の決まりごととして、大人たちが勝手に決めた。
すると、大人たち、子どもたち、ぼく、という三つの見えない境界線が生まれるのだ。
修学旅行や遠足などの行事と、ぼくのことを重荷にすることはセットだった。
 
流石に中学に上がると、教壇の前に立たせるなんてことはなくなったが、入学した直後、同じ小学校だった友人が担任教師に呼び出されたと思ったら、ぼくのことを頼まれたと告げ口をしてくれた。
そして、病気が再発して学校を休む度に、大人たちがぼくのところにやってきては、クラスメートに共有した方がいいんじゃないかと、持ち掛けてきた。
「それをしたら、ぼくはもう学校に行かなくなる」と言うと、バツが悪そうにしていた。
さらに高校まで上がると、こういうことがなくなるかと思ったら、休んでも、サボっても、同じように呼び出されて、病気のことを持ち出してきた。
 
その後、ぼくの年齢が増えていくと、当時の大人たちが抱いていた感情が分かるようになった。
得体の知れないものへの不安だ。
ひとりで抱えきれない不安を、他の者と共有することで減らし、得体の知れない生き物を管理することで、さらに不安を減らそうとしていただけだ。
二十代の頃にこれに気づいて、笑ってしまったことがある。
教師といえど、たかが二十代、三十、四十、五十代の人間だったのだ。
得体のしれないものを受け入れる器など、育っていなかっただけだったのだ。
四十代に差し掛かろうとしている今、一段とそれが分かる。
浪人時代、予備校講師が浪人生を十把一絡げにして「お前たちは普通以下だ」と言い放ったとき、「あ、人生これからだ」って思ったもんな。
そうして、偏差値を30ほどあげて、行きたい大学の学部に進んだんだ。
浪人から、人生変わったんだよなぁ。

失敗しても。

2019.8.2

昨日の内容で「自分には〇〇が向いていない」というのは、目の前の仕事を丁寧に扱っていないだけ、というようなことを書いたが、ひとつだけ例外がある。
「職場」だ。
仕事をする環境と自分が合っていないのに、仕事と自分が合っていないと勘違いしているケースが、それだ。
 
どこにでも、お世辞にも「いい環境」と言えない職場はある。
社長が連日怒鳴り散らし、使用するデジタル機器はパフォーマンスが足りず、資料管理がずさんであったりと、数えきれないパフォーマンス低下の要因が積み重なっている場合がある。
こういう環境にも関わらず会社に居座り続けるのは、優しさではなく怠慢だ。
やる気のある人ほど、その会社を辞めるだろう。
 
もう一つは、自分の熱量と、会社内にいるメンバーとの熱量が揃っていない場合だ。
職場の熱量が高い中に、低い熱量の者が入れば、その人は体調不良になる(低い熱量が伝染することもあるが)。
逆もまた然り、職場の熱量が低い中に、高い熱量の者が入れば、その人は体調不良となる。
 
このケースだと、人は誰でも、自分は熱量が高い方だと思いたがるが、その仕事を辞めた後に、辞めた人が躍進したのなら、熱量が高い人だと言えるだろう。
しかし、体調不良になって仕事を辞めても、そのまま不調が続くようなら、熱量は高くはなかったということになる。
熱量が高い人は、体調不良によって敗者になったとしても、環境が変われば、また立ち上がる。
なぜなら、熱量とは、自分の中にしかないからだ。
火種も、火付け材も、全部自分の中にある。
何でもかんでも職場のせい、仕事のせいにしていると、いつまで経っても強い人にはなれない。
大事なのは、敗者になっても、立ち上がることだ。

小さな能力の方が大事。

2019.8.1

能力とは何だろうか、と考えている。
スキルと呼ぶことの方が多くなっているかもしれないが、果たして、スキルの範囲だけが能力なのだろうか。
仕事で評価してもらうことは、スキルとしての能力だ。
「自分はこの仕事に向いていない」というのも、そのスキルがないと言っているようなものだ。
何よりも、スキルとしての能力は分かりやすい。
〇〇ができる、〇〇の能力が高いと言われるときの〇〇に該当する。
最近では、やり通す力のことも何か名前がついて、スキルになっている。
 
だが、そういったスキルと呼ばれる能力だけで、仕事は成り立っていないだろう。
ぼくが大事だと思っているのは、スキルと呼ばれるような目立つ能力ではなくて、小さな能力の方だ。
掃除をすること、食器を磨くこと、道具の手入れをすること、ちょっと気が効くと言われるようなこと、そんな評価にならないようなことができる能力の方が大事だと思っている。
実際に、こういった小さな能力を積み重ねると、仕事で役立つ能力が身についたりする。
仕事ができる、と言われるような人が、試しに挙げたこれらのことを、無下にしている姿は想像できない。
 
だから、「自分は〇〇に向いていない」と言って仕事を辞める人は、何を仕事にしても、うだつは上がらない気がしている。
向いている向いていないの前に、目の前の仕事を、丁寧に手入れをするように扱っていないわけだから。
ぼくのところに転職相談に来る人は、結構この言葉を言っているが、その人のことを雇いたくなったり、何か仕事を紹介しようという気にさせる才能を持っているとは感じない。
企業での評価軸を作るときに、こういったことが評価に結びつくことはできないだろうか。
いや、評価になると思うと、人はスキルにしちゃいそうだから、なんとなしに「いい人だよね」と言われる評価を聞き流さないということだろうか。

病みそうになったらボケろ。

2019.7.31

凄いことを発見してしまった。
「病みそうになったらボケろ」だ。
ボケとツッコミのボケから笑いは起きる。社会人になって、上手く人生が回らずに、病んでしまった人がいるだろう。
 
そういう人たちの話を聞いていて、学生時代に共通していたのは、ツッコむ側だったことだ。
学生時代というのは、関係性が壊れないと約束されているところがある。
だが、社会人は簡単に関係性を壊せる。
だから、知らん奴にツッコまれる筋合いがなく、下手なツッコミはムカつかれる。
そして、素人のツッコミは、下手な指摘だ。
少々の年上、先輩程度であれば、下手な指摘はムカつくだろう。
そして、下手なツッコミ専門だと、会話の糸口も掴めなくなる。
 
だが、ボケ側は会話のはじまりを作ることができ、笑ってくれる環境や、喜んでくれる環境があればいい。
反りが合わないと感じたら、笑ってくれる環境を探すことができる。
上手くツッコんでくれる人と出会えたらラッキーだが、そんなセレンディピティは期待していないだろう。
 
ボケというのは、そのままお笑いのボケでもあるし、発表だっていい。
何かを作る、何かを書く、何かを発表する。
こういうのはボケだ。
けれど、書くときは批評じゃダメだ。
批評はツッコミだから、お前に言われる筋合いはねぇ、となる。
(ぼくが批評家嫌いなのは、仲間なら知っているだろう)
作るものは、すべてオリジナルで発表できるものだ。
 
すると、学生時代、ツッコミしかやってこなかった人は、どうすればいいかわからないだろうが、イジられることを良しとすればいい。
最初は嫌かもしれないが、イジられたときの返しが上手くハマると、それがキャラクターとなる。
そして、笑いになる。
病みそうだと思ったらボケる。
くだらなさ過ぎて笑っちゃうぐらいボケる。
最近、そんなアプリを作りたいと考えていたが、やっぱ笑いって、世界救うわ。

積み重ねは打率。

2019.7.30

同じ時間を過ごしてきた人同士が、その後、全然違う状態になるというのは、珍しいことではないだろう。
同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校、同じ高校、同じ大学、同じ会社……同じ〇〇を挙げようと思えば、ある程度は挙げられる。
全部が同じところに行っていたというのは珍しいかもしれないが、六年間や三年間、同じ環境で過ごしていただけでも十分な気がしている。
それでも、別々の岐路を選び、選んだ結果の積み重ねで、同じ環境で育った人でも全然異なる人生になる。
 
「積み重ね」というのは、「打率」とも言い換えることができるだろう。
選んだ結果だけで決まるのなら、本塁打を狙うしかなくなるが、選んだ結果の積み重ねなら打率を上げていくようなものだ。
そうやって考えてみると、日常のことや仕事のことを、ヒットやアウトで考えてみるといいかもしれない。
 
掃除をしないでホコリやゴミを溜め込むのはアウト。
仕事を休むのはアウト。
陰口を言うのはアウト。
助けを求めるだけはアウト。
 
掃除をするのはヒット。
コツコツ仕事をするのはヒット。
感謝をするのはヒット。
人を助けるのはヒット。
 
毎日、ヒットしか出さないってことはないだろう。
体調が優れず、仕事をしても仕事仲間に迷惑をかける日は、仕事を休んだ方がいい。
こういう場合は、どちらにせよ、アウトなのは変わらないが、早く体調を回復して打率を上げるしかない。
それでも、アウトを減らすことはできるはずだ。
たとえば、疲れ切って掃除ができないとしても、不満や陰口を言うことは絶対にしないとか。
仕事をやっていなくても、その間、仕事につながるような努力をしているとか。
全人類を助けることはできなくても、席をゆずるとか、荷物を持ってあげるとか、落とし物を届けるとかはできるんじゃないだろうか。
自分がお客だとしても、お店の人にお礼を言うこともできる。
一緒にいる相手を不快にさせないように、身支度を整えたり、不潔にならないようにしておくとか。
こうやって、ちょっとずつ人生の打率を上げていくことが、人生をよくすることにつながるような気がしている。
 
少なくとも、ぼくのような生き方で、仕事の依頼がきて、美味しいご飯を食べていられるのは、こういう小さなヒットの積み重ねをやってきたからじゃないだろうか。