Archive for 2018.12

書いては消して。

2018.12.16

たまーに起きることですが、ここの内容を書くときに、書いては消してを繰り返すときがあります。
どうしてもつまらない内容になってしまうときや、特定の誰かを傷つけてしまうときです。
つまらない内容というのは、書いているぼくが読んだときに、つまらないと感じるだろうということです。
 
もう一つの筆を止めるのは、いまだからできるような気がしています。
特定の誰かを傷つけてしまう内容というのは、書いている最中、つまらないかどうかはどうでもよくなってしまうものです。
読み手としては、つまらないはずです。
それにも関わらず、ストレス発散なのか、自ら筆を止めるのは難しくなるものです。
 
どうやって止めるような意識になれたかというと、やはり、それだけたくさんの人を傷つけたということだと思います。
誇れることではありません。
けれども、傷つけたという意識がなければ、傷つけることを続けていたでしょう。
おそらく、人が大人になるということはこういうことだと思うのです。
できないことを知るのも、大人になることですね。

味覚違い。

2018.12.15

昨日、「妻のために焼きリンゴぐらい作りたいものです」と書いていたら、今日の朝(投稿では昨日)、焼きました、リンゴ。
朝、二人ともあまりお腹が減っていなかったので、「じゃあ、朝食は焼きリンゴにしよっか」ということで。
 
ぼくが皮を剥いていたら、横から「あれ?皮、剥いてたっけ?」と妻。
「剥いてたよ」と言いながらも、自分でも疑問に思い、半分は皮を残したまま焼き始めました。
いつも通り焼いて、最後に蜂蜜のお酒を、少しだけ加えて完成です。
 
「うま〜い」と言いながら、ハーゲンダッツのリッチミルク味を乗せたり。
パクパク食べながら、妻の一言。
 
「皮、ない方が美味しいね」
えぇ〜、俺、皮ありも美味しく感じていたのに〜。
味覚とは、難しいものです。
 

ぼくが焼きリンゴを作っているあいだ、妻はコーヒー豆を挽いて、いつもとは違うやり方で、コーヒーを淹れてくれました。
いつもよりも時間がかかる淹れ方なので、濃くなりそうですが、お湯の量をいつもよりも多めにしたとのこと。

「いつも通り、美味しいね」とぼく。
「いつもよりも、美味しい気がする」と妻。
再度、味覚とは、難しいものです。
 
ま、両方とも美味しいってことは同じだったので、一件落着。

焼きリンゴとあんこ。

2018.12.14

最近、硬い内容が続いたので、やわらかいことを書きたいなーと考えています。
でも、思い浮かぶのは硬い内容なので、参ったなぁ、という次第です。
 
そもそも、こういうときの信号として、「じっくり作る料理」をやらなくなります。
たとえば、いま家にはリンゴが二つあり、妻はぼくの作る焼きリンゴが好きなのです。
でも、作ろうとしないんですよね、ぼくが。
切って、皮を剥いて、バターでじっくり焼いて、最後に砂糖をまぶすだけなんです。
 
あんこだって作っていません。
小豆を煮て、お湯を捨てて、もう一度煮て、お湯を捨てて、最後に砂糖とちょっとの塩で煮込むだけです。
 
こういう料理の共通点は、火の元の前にいなきゃいけないってことです。
おいしく作るコツのようなものがあるのなら、ただそれだけです。
それでも、やろうとしないのは、ぼくに問題があります。
やる余裕を持てていないのです。
 
来年の5月まで、新規の依頼は相談の話し相手しかできないと伝えています。
それでも相談事をしにきてくれるのは、とてもありがたいです。
相談事を受けても、すぐに何かを作るような仕事の仕方はしていないから、通常どおりでもあるんですが。
 
まぁ、ほんとに、もうすぐ正月だし、あんこぐらいは煮て、妻のために焼きリンゴぐらいは作りたいものですけどねー。

伝える役割と売る役割。

2018.12.13

「昨日はシリーズ」になってしまっていますが、昨日は「アーティスト」のことにも触れました。
学生を卒業した直後から数年間、ぼくは写真家、つまりアーティストでした。
ギャラリーに所属して、作品を作って、展示をして、作品を売って、稼ぐ。
これがアーティスの生計になるのですが、もうね、経験が早すぎたんだと思います。
 
当時のぼくは、学生のうちに写真家としての賞を受賞して、卒業と同時に、ギャラリーに所属しました。
所属したと言っても、毎月給料が出るわけではないし、所属するのとしないのと差は、展示するために、お金を払わなくていいぐらいなものです。
その代わり、作品が売れた時の手数料は50%取られちゃうんですけどね。
ギャラリーはこれで生計を立てるから、作品を売るのが彼らの仕事です。
アーティストが展示をするための場所代を払って、そのお金で生計を立てるギャラリーもありますが、そことの違いは、ギャラリーとしての知名度や箔のようなものです。
狭い業界なので、あんまり意味がないんですけどね。
これを知るのも、所属して身をもって体験したからです。
 
どうしてここまで辛口になれるのかというと、この役割分担がちゃんと分かれているギャラリーとアーティストを、ぼくの知る限り、見たことがないからです。
というのは、作品が売れる時って、だいたいアーティストがギャラリーにいるときですし、そのときは、だいたいアーティストはトークショーなどに駆り出されているわけですから。
つまり、アーティストは作品を作る以外に、売る仕事もやっているわけです。
 
もうね、こうなってくると腐るわけです。
「俺が作って、俺が話して、俺が売ってるんだから、もっと良いイベントとかアートフェアの場所を取ってこいよ」みたいなね。
いまのぼくも人格が優れているわけではありませんが、当時は嫌な奴だったと思います。
 
そのときに学んだのは、「伝える役割と売る役割はちゃんと分ける」です。
 
ひとりの頭の中で役割分担を分けるのもいいですが、二人以上の人がいるのなら、役割分担はきっちり分けた方がいいです。
クリエイティブという仕事は両方の頭を持つ必要があるので、実際に今は頭を切り替えながら、ひとりでやっています。
 
ぼくが展示をしなくなったのって、「売るを作る」を本気でやろうとしているギャラリーがいないと気づいたからです。
事務所となる場所を探しているとき、やっぱりね、展示ができることも大事なんだなーと気づいたしだいです。

本来はつまらない仕事。

2018.12.12

昨日は、「面倒臭さを乗り越えて、仕事をおもろくしている」と書きましたが、これは本当にそうだと思ってます。
 
他の人はどうか知らないが、ぼくは左団扇で暮らしたい人です。
なるべくなら、何もしたくないか、好きなことにちょっとの刺激があって暮らしたい人です。
刺身の薬味に、わさび以外を使ってみるぐらいのドキドキでいいんです。
 
デザインや写真なんて仕事は、本来であればつまんない仕事だと思います。
素人である依頼人にいちいち説明するのも面倒だし、その人の意見で崩壊してるのに、利益が上がらないのを、こちらのせいにされたり。
利益が上がったって、ぼくらの提案だったことなんて忘れ去られていることがほとんどです。
素人よりもひどい依頼人は、作る力のない元デザイナーとかデザイン関係の仕事をしてた人とかね。
運がいいのは、ぼくの依頼人はそんなことないってところです。
この人たちを守るためにも、ぼくは依頼数を制御しています。
 
話を戻しますが、こんな世知辛い仕事、普通にやっていたら退屈なだけです。
退屈なことをおもろくするには、自分ごとにするしかないような気がしています。
 
ぼくであれば「ぼくだったら絶対に買う」ことを提案する。
ぼくは今まで関わった仕事で、手に入れられるものは、すべて購入しています。
自然栽培なんて、結局、畑をはじめちゃいましたし。
 
依頼されるまで、まったく興味がなくていいんです。
むしろ知らないことだらけの方が、質問もしやすいです。
その代わり、仕事を引き受けたら、決算報告書を見たり、四季報なんかも読みます。
 
やりたくないものは環境に置かないようにしたいです。
だから、やりたくない仕事を断るのはもちろん、事務所内で見るのも嫌だったんだと思います。
 
昔、「お前はときどき、すごい冷たい目をする」と言われたのを覚えています。
その代わり、引き受けた仕事は、面倒臭さを乗り越えて自分ごとにしていっているだと思います。
 
好きを仕事にしているアーティストも、実はそれほどいないです。
出たくもない社交場に出ることをしていますし、よぼよぼになって呼ばれなくなってから「俺は出たくないから出ない」と言っているのです。
だからね、仕事をおもろくするのって、面倒くささと一蓮托生な気がするのです。
 
毎日仕事をしていることや、仕事から関係のない場所に行っても、仕事と結びつけて話をしているのも、「ありえない」と妻から言われていますしね。
 
面倒臭いけれどおもろさをとるか、面倒臭い退屈さをとるか、どっちかのような気がしています。
面倒臭さは変わらないと思うんですよねー。