Archive for 2018.12

提案とは。

2018.12.21

さてさて、今日は何を書こうかと考えながらお風呂に入ったのですが、何も思い浮かびませんでした。
こりゃ参った。
勝手に書いているのだから、そもそも「参った」ということもなかろう、とも思うんですけどね。
そして、「勝手にやっている」というのは、けっこういいものだなぁ、とよく思うのです。
 
頼まれ仕事というのは、相手の要望というのを聞かなければならない部分があります。
特にお金が発生すると。
けれど、相手の要望というのは、大抵、ロクでもないことが多いのです。
お金をかけずに売れたい、とか。
「なにゆうてまんねん」という、意味不明な関西弁もでちゃいますよ。
ま、タダでやったとしても、相手の要望って出てくるんです。
「タダでやってもらう代わりに、好き勝手やっていい」というのは、かなり器量のいることです。
だから、結局はお金を払ってもらった方がいいんですけどね。
 
そのときに、ロクでもない要望を、どこまで減らせるかが、頼まれ仕事を受ける際の肝になってきます。
そこで登場するのが、「勝手につくっちゃう」というやつです。
良く言えば「提案する」ということですが、これのいいところは、提案が通ればそのままになるし、通らなければ他の場所で使えるということです。
少なくとも、自分の力にはなっています。
 
世の中の力のある人たちって、行動力があると言いますが、そのほとんどは誰に言われるまでもなく、勝手に動いていると思うんですよね。
そうこうしているうちに、今日の分も書けました。

才能があろうがなかろうが。

2018.12.20

午前中に撮影をして、いくつかの仕事が、中休みのような落ち着きをもったので、午後は休みにしました。
といっても、手書きを増やしているタイミングで、「いわさきちひろ美術館」に行ったのだから、取材のようなものです。
名前を知らない人でも、絵を見たら、「あぁ、知ってる」となるような方です。
おそらく、いまのぼくの趣向と合っているんでしょう。
淡い水彩のタッチが、とてもはかなく、優しく、大人な感じがしました。
 

西武新宿線の上井草駅を降りたとき、「あぁ、日差しが綺麗だ」と思いました。
道中もそんなことを思いながら、知らない街を散歩する気持ちよさに任せて写真を撮りました。
 

絵を描くことも写真を撮ることも特別に好きなのではない。
得意だったんだ。
こういうのを才能というのかもしれないが、欲しいものを挙げるのなら、それは「才能」です。
もっと、才能が欲しいと思います。
そのために、毎日仕事をしているのです。
毎日毎日、飽きるまで線を描く、色を塗る、写真を撮る、文章を考える、人を想像する。社会を想像する。
そんなことを繰り返し繰り返し行うことで、才能があろうがなかろうが、以前よりも作れるようになるのです。
 

考えた挙句、つまらなくなる。

2018.12.19

いま進めているデザインで不安だった色が、写真を入れた途端、活き活きとしてきました。
最初の段階では完成形が見えていたはずなのに、手を動かしているうちに見えなくなっていました。
正確には、見えるものが増えてきたことで、遠くにある旗印が見えなくなってしまっていたということです。
 

こういうこと、依頼人はよくあります。
いろいろ考えた挙句、ユーザーが混乱したり、つまんなくなる案を、依頼人が話すことは多いのです。
いろいろ考えすぎてしまい、関係各社の都合もあって、案はどんどんつまらなくなっていきます。
そこを「つまらない」と言うのが、ぼくの役目だったりもしますが、自分ごとになると、ぼくもわからなくなることもあるわけです。
 

「あっ」と気づいた瞬間、完成しました。
 

頼まれ仕事でもそうじゃなくても、いいものができたとき、寿命が減る感覚があります。
「あぁ、疲れた」
これを言うこともできないほど、疲れています。
この感覚がないものは、たとえ周りから褒められても、「あ、そんなものか」となってしまいます。

話す行為。

2018.12.18

すべては「話す行為」なんじゃないか、と思いました。
唐突ですが、ふと思ったのです。
悪い人じゃない、むしろいい人なのに、なんか一緒にいたくない。
ま、そういう人がいるとして。
プライベートであれば、「クセのある人だから」と言って、話題にしそうだけれど、仕事においては、もうちょっと現実問題というか、そんな部分での話し方に要因があるような気がします。
 
先日、歯列矯正の先生から、人間の平均的な頭の骨格について教わりました。
その中で、目の位置というのは、地面と水平になるようにできていることを知りました。
この位置が水平でなくなると、その人に会っている人は不快感を覚えるらしいです。
人から怖く見られたい人が、顎を上げて上から見下ろすようなことです。
 
「話す」という行為には、いろいろな要素が組み合わさっています。
声質、言葉の選び方、呼吸(間)の取り方、相槌の取り方、話す順序、声の大きさ、滑舌の良し悪し。
音声電話やTV電話であれば、機器の調子もあるでしょう。
直接の会話なら、さっき話題にした目線、服装や表情などの見た目から、匂い、身振りなんかもあるでしょう。
メールであれば、メールの書き方が話し方になるわけですし。
あ、この文章もそうですね。
 
すべて「話す」という行為に集まって、その人の印象を決めてしまっているよなぁ、と思ったのです。
世の中には、根っからの悪い奴というか、人を陥れることに喜びを見出す人もいる。
けれど、そんなに悪い奴じゃなく、いい人なのに、会いたくないなぁと思ってしまう人って、「話す行為」を改善したら、会いたい人になるんじゃないだろうか。
 
この文章を読んでいる人の、ぼくの印象もあるわけだ。

「続けること」と「初心者になること」。

2018.12.17

今年から茶道を習っています。
習っていると言っても、まったくの初心者で、ひとりでお茶を点てることもできないです。
楽をさせていただいても、毎回、足は絶望的なほど痛くなります。
 
でもね、「習う」っていうことがいいのです。
茶道の楽しさはまだ分かりませんが、習うことの楽しさを感じています。
この歳で、初心者になれるのです。
36歳にもなると、自分の仕事のことは食えるレベルになったり、人からチヤホヤされるレベルになります。
 
これは、どんな職業でも同じだと思います。
続けてきたから得られることです。
会社に居続けている人なら、その会社内で活きる能力が成長しているので、それはそれで重宝されます。
どんなことでも続けていれば、いいとこまで行けるものです。
 
でも、ほとんどの人が「自分の努力」や「工夫」に焦点を当てて、「単に続けたこと」を軽く見るんですよね。
だから、多くの人が得意気になってしまうのです。
ぼくにもそういう気質はあります。
そして、たったひとつのチヤホヤされることで、それ以外のいっぱいある分野のことも精通したような気になっちゃうんです。
そんなことはないですからねー。
 
ぼくはクリエイティブ業界にずっといますが、それ以外の業界については、まったくのずぶのど素人ですから。
いま茶道のことを語っても、嘘になっちゃうでしょう。
でもね、初心者として習っていくと、不思議と、自分の業界と似ているところと、似ていないところも見えてくるのです。
 
これは、ぼくが何かを続けてこなければ、得られない感覚だと思います。
さらに、実際の現場に飛び込んで、初心者にならなければ、得られない感覚です。
続けてきたことと、初心者になること、この二つが交わって、はじめて生まれる感覚なんです。
プロだからって、自分の業界で初心者になれないことはないですからね。
この感覚、好きなんだよなー。