Archive for 2018.9

俺の場合。

2018.9.20

死について考えることは多い。
物心ついた頃には腎臓病だったが、その頃は考えてなかった。
小学校の頃も「人と違う体」について考えることはあっても、死について考えてはいなかったと思う。
明確に考えるようになったのは、15歳の頃に友人が死んでからだ。
事故ではない、病気だ。
それまでピンピンしていた友人が、春休み中にそのまま亡くなった。
ピンピンしていたと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。
しかし、これ以降、ぼくは死について考えるようになった。
その後、芸術の道に進み、歴史上の先達と会話ができるようになった。
実家の墓参りに行くのも、死んだ人と会話をするためだ。
20代の頃に墓参りに行くと「若いのに偉いね」と褒められたが、単に自分が行きたいから行っていただけだ。
今年、親父が死んだ。
あまりにも普通のこととして受け止めている反面、死について考えることは増えている。
これは生きることを考えることとも同じなのだ。
あといくつ、俺はつくることができるんだろうか。
それに比べたら、世の中のほとんどのことはどうでもいい気がしてくる。
そう思えてしまうのだ。
いのちの時間は、つくる時間なんだ。

マカロニサラダ。

2018.9.19

マカロニサラダが好きだ。
小麦アレルギーが発覚した後も、定食の脇に添えられているマカロニサラダが大好きだ。
カレー味でも、からしマヨネーズ味でも、ノーマル味でもオーケーだ。
ポイントは「定食に添えられている」という分量だ。
しょうが焼きやデミグラスハンバーグのタレに絡めたら、味の限界突破を軽く超えてくる。
家で作るには少なすぎる。
かといって多く作ればいいもんじゃない。
あの、脇に添えられた量がちょうどいいんだ。
「好きなの? じゃあ、たくさん食べなよ」なんて、野暮なことを言っちゃいけない。
マカロニサラダよ、この世に誕生してありがとう。

ボブ・マーリーの映画。

2018.9.18

三連休最後の日ぐらい仕事はしないぞってことで、ボブ・マーリーの映画を観てました。
といっても、途中で見るのを止めたので、つづきは近々観ようと思っています。
観ながら思っていたのは、ボブ・マーリーのことを多くの人が語ったとしても、本人が伝わっているとは限らないんですよね。
有名人であればあるほど語られることが多くなるので、ぼくらは知った気になってしまうけれど、ボブ・マーリーと遊んだわけじゃないし、話したわけじゃないんです。
たぶん、彼のことを考えている回数が少ないのも影響していると思います。
というのも、美術の人たちなら死んでいても、ぼくに語りかけてきますから。
けれども、共通していることもあって、この場合も誰かが語った話を聞いても、彼のことがわかるわけじゃないんです。
彼の作品を通してしか、彼のことはわからない。
ボブ・マーリーもそうでしょう。
劇中に流れていた曲、よかったなぁ。
語る語られる前に、つくったものを味わえ、ってね。

いつも仕事をするのは褒められない。

2018.9.17

いつもよりも短い時間ですが、土日に仕事をしていました。
それで日曜日の夜に湯船に浸かりながら思ったのですが、いつも仕事のことを考えているのは褒められたもんじゃないな、と。
なんかやった気になっているんですよね。
実際に仕事は進んでいるから、やっているといえばやっているんですが、それほど大したことなのかと。
国を動かそうが、何億人を救おうが、いままでにない事業だろうが、俺ひとりの人生において、それほど大したことなのかと思うんですよ。
それよりも、誰にも影響しないけれど、俺にとっては未知のことをやっている方が、俺の人生にとってはオモシレーよなぁ。

雨の日のバロメーター。

2018.9.16

雨というのは、こころの健康を測るバロメーターになっているかもしれません。
あまり気分がすぐれないときに雨が降っていると、予定を狂わされたかのような錯覚を覚えます。
けれども、気分がいいときは、「雨の日も風情があるよな〜」なんて呑気なことを思っています。
どちらがいいかと言ったら、そりゃあ呑気なことを言っているほうでしょう。
涼しくなったことを寒いと感じるときも、こころの調子がいいときではないかもしれませんねー。