俺の場合。

2018.9.20日々のこと

死について考えることは多い。
物心ついた頃には腎臓病だったが、その頃は考えてなかった。
小学校の頃も「人と違う体」について考えることはあっても、死について考えてはいなかったと思う。
明確に考えるようになったのは、15歳の頃に友人が死んでからだ。
事故ではない、病気だ。
それまでピンピンしていた友人が、春休み中にそのまま亡くなった。
ピンピンしていたと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。
しかし、これ以降、ぼくは死について考えるようになった。
その後、芸術の道に進み、歴史上の先達と会話ができるようになった。
実家の墓参りに行くのも、死んだ人と会話をするためだ。
20代の頃に墓参りに行くと「若いのに偉いね」と褒められたが、単に自分が行きたいから行っていただけだ。
今年、親父が死んだ。
あまりにも普通のこととして受け止めている反面、死について考えることは増えている。
これは生きることを考えることとも同じなのだ。
あといくつ、俺はつくることができるんだろうか。
それに比べたら、世の中のほとんどのことはどうでもいい気がしてくる。
そう思えてしまうのだ。
いのちの時間は、つくる時間なんだ。

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