Archive for 2018.8

一生懸命ってしあわせなの?

2018.8.16

8月15日でしたね。
前日の8月14日に何か書こうかと思ったけれど、なかなか難しいと思いました。
そうこう考えているうちに、最近よく考えていることと近いかもと思いました。
 
最近ぼくは、「一生懸命って思っているほど素晴らしいことじゃないかも」と思うようになっています。
一生懸命の先になにがあるだろうと、考えるようになったのです。
 
もしも、一生懸命の先になにかを達成したら、達成感はあるでしょう。
これはぼくも経験しています。
達成するまでの道のりも、いいもののように感じますよね。
ひたむきさ、とか。
合言葉は「努力、気合い、根性」とか。
優勝せずとも、優勝を目指して努力する姿とか。
もちろん、この美しさを知っていますし、この美しさをぼくも素晴らしい価値としてきました。
 
でも、ちょっと待てよ、と。
いい面もあれば、悪い面もあるよなって、思うようになっています。
考えることを一生懸命やれば、考えは頑なになっていきやすい。
「俺はこれだけ考えたんだ」が説得材料になったり。
「死ぬまでやりつづけた」が価値になったり。
にわか甲子園ファンよりも、仕事も家族も顧みずに現地へ行って声を枯らして応援しているファンの方が偉いとか。
ちょっと脱線しましたが、考えだけじゃなくて行動でも、自分の一生懸命さと周囲とのギャップで、自分も周りも傷ついたり。
家族を顧みずに一生懸命の結果、家族は傷ついていますし。
 
むかしのぼくもこうでした。
作品をつくるために恋人と別れたり。
仲間とは言い合いばかり。
 
でも、「これって誰かをハッピーにすんの?苦労が多いだけじゃね?」と思うようになったのです。
「自分も周囲もハッピーにならない一生懸命さってなに」って。
この答えが「周りのことも考えてこその一生懸命さ」というような屁理屈に逃げちゃいけんわな。
 
「一生懸命ってしあわせなの?」が最近のぼくの考え事です。

戦っているヒト。

2018.8.15

亀倉雄策さんの本もそうだけど、佐藤卓さんの『塑する思考』を読んでいても泣いてしまう。
あまりにも自分の考えていること、戦っていることと重なりすぎて、「孤独な戦いじゃなかったんだ」と涙が落ちてくる。
現代ではクリエイティブやデザインの必要性が説かれているが、ほとんどが誤った解釈であり、依頼人とのやりとりのほとんどは、この誤った解釈を諭していくことの連続。
連日、場所を変えて、相手を変えて同じことを叱る、もしくは諭す。
相手は依頼人たちだ。
日本の依頼人業ではあり得ないような光景が、連日繰り広げられる。
さらには、誤った解釈に便乗する詐欺まがいの同業者との戦い。
さすがの楽観主義でも、いったいこの世の中はどうなってしまうんだ、と思いたくなる。
こんな中で、時代や場所や立場を変えて、同じように戦っていた(る)ヒトたちのことを知ると、自然と涙が落ちてくる。

やっぱりドロンジョ様。

2018.8.14

先日、池袋で開催している『FINAL FANTASYと天野喜孝の世界展』を観てきました。
ぼくなんかが説明するまでもなく、『ファイナルファンタジー』は世界的ゲームタイトルですし、天野さんは世界的な画家・イラストレーター・キャラクターデザイナーです。
 
ぼくが天野さんのことを認識したのも、『ファイナルファンタジー』です。
当時は子どもながらに「こんな絵、みたことない!」「すげー、かっこいい!」なんて思っていましたし、天野さんの描いたキャラクターがたくさん見れる『ファイナルファンタジーⅥ』はストーリーも相まって、一番好きなタイトルです。
その後、『ヤッターマン』や『ガッチャマン』などのタツノコプロさんのキャラクターデザイナーをしていたことを知り、これまた驚いたのを今でも覚えています。
 
日本のアニメ男子なら、どのアニメのヒロインが好きかということがあると思うのですが、ぼくは「ドロンジョ様」です。
綺麗で、悪巧みが好きなのに、ちょっとアホ。
お色気たっぷりで、やっぱりちょっとアホ。
手下の男二人はお世辞にもかっこいいと言えない。
三馬鹿トリオの紅一点。
普通に生きてれば玉の輿だっていけちゃう美貌なのに、悪巧みをしちゃうからいつも金欠。
しかも中間管理職で、いつも最後に「おしおきだべ〜」で上司から雷を落とされる。
だから、守ってあげたいような、支えたいような、すけべ男心をくすぐる。
こんな魅力的なヒロイン、そうそういないでしょう。
 
それが、天野さんの絵になるとシャープになって、美しさと悪っ気が倍増されるのです。
あぁ、もう、すげぇいいなー。
三馬鹿トリオに入りたいなー、なんてね。
 

デザインは「する」のではなく「ある」もの。

2018.8.13

ぼく自身も気をつけていることですが、なにかの専門家になると自分の専門分野が特別なことのような錯覚を覚えます。
そして、仕事の打合せなどで自分の貢献度を示すために、特別なように話すでしょう。
学会のように、その専門分野のことを話す場ならこれで構わないでしょうが、打合せの席などで、この視点しか持っていないと会話にならないことが多いです。
とにかく自分の専門分野を特別なことにしなければならないので、専門技術や知識を発揮することが、どれだけのコストがかかるかの話をしがちです。
みんなお金が欲しいからね。
 
でも、すべては習熟度でしょう。
慣れてればいいモノが早く作れるし、時間をかける必要があるところで時間をかけるでしょう。
不慣れであれば大変なので、慣れているヒトに頼む。
すべての専門分野はただこれだけの話です。
 
そして、生活のなかで未来永劫、必要とされない専門分野があるでしょうか?
答えは否です。
たとえ、ニッチな世界でも必要とされるはずです。
つまり、専門分野は生活のなかで「当たり前にある」ことなのです。
 
これは私の専門分野であるクリエイティブやデザインも同じです。
 
このように考えると、「デザインをする(しない)」という議論が盛んに行われているけれど、これは間違っていて、「デザインは当たり前にある」のです。
身の回りの椅子や車、店舗、建物の動線、話し方からお辞儀の仕方まで、生活のいたるところにデザインはあります。
飾り立てることは飾り立てるデザインがあるだけで、飾り立てないことは飾り立てないデザインがあるだけです。
これは、飾り立てる派手なヒトと内面を美しくする素朴なヒトがいるのと同じであり、そういったデザインがあるだけです。
華やかな席では素朴すぎるデザインは効果的ではないでしょうし、老舗の味を脈々と伝えている席では派手さは不似合いになります。
派手や素朴のデザインが、それぞれの場で、効果的に機能していないということです。
つまり、デザインはどんなものにも存在していて、これが効果的に機能しているかどうかなのです。
 
そういう意味では、デザインは、人間が備えている器官に近いでしょう。
目における網膜や水晶体、視神経など「見る」という機能にかかわる器官が効果的に働いていなければ、ボヤけて見えたり、見えなかったりすることと同じです。
胃が調子悪ければ、食べることが難しくなりますし、膝が悪ければ歩くことが難しくなります。
 
デザインも同じなのです。
デザインの良し悪しというのは、すべてのモノゴトが内包しているデザインという性質が、効果的に機能しているか、していないかの違いなのです。
これが分からずに「デザインをする(しない)」で話していると、どうしても飾り立ててしまわないと不安になってしまうものです。
この不安に勝つことが、デザインを効果的に機能させる、はじめの一歩のように思えます。

線の意味。

2018.8.12

「線」というのは色々な意味を持ちます。
 
線のあっち側とこっち側を分ける意味。
強調する意味。
打ち消す意味。
ホームページのリンクを示すように、意味を持たせる意味。
時計の針のように、モノゴトを指し示す意味。
方向を表すこともできます。
飾り立てる意味もあるし、溝のように物理的な効果を出したり、触覚を刺激することもできます。
線を閉じれば、丸にも四角にもできます。
線を組み合わせれば文字を作ることができるし、立体にすれば建物を作ることもできます。
線を遠くから見れば点になります。
 
ここまで書き連ねていくと、線がすべてを表現できるような気さえしてきます。
ま、こう言っちゃうと、「線と認識できなければ線じゃない」とも言われそうですが、大事なのはそんな議論ではないのです。
 
デザイナーとして大事なのは「線を使いこなす」ことです。
境界線として使うのか、強調するためなのか、平面として見せたいのか、立体として使いたいのかなどなど。
これが意味もなく使おうとすると、飾り立てる使い方しかできなくなります。
 
やたらと線を引いているデザインを見たことがあるでしょう。
そんなデザインを見たことがないという方も、無意味に絵柄を入れているデザインを見たことがあるでしょう。
線が絵柄を作り出すことを踏まえると、線の無駄遣いってやつですね。
 
そうならないためにも、線の特徴を理解して、使うことが重要だよなーと改めて思ったのは、茶道のお茶会に参加して、畳の縁や扇子を「境界線」として使っていることを知った瞬間があったからです。
お茶会での所作を「あ、美しいな」と感じるとき、線を明確に作り出す動きをしています。
所作のなかにある線が効果的に機能して、意味をはっきりと感じるのです。
迷うと、線が曖昧になります。
デザインという視点から言うと、デザインはするのではなく、そこかしこに「ある」のです。
所作のなかにあるデザイン。
これが機能しているか、機能していないか。
だから、茶道のデザインというのもあるんだろうな、と思った土曜日の夕暮れどきでした。
(これから茶道を学んでいくんですけどねー)