Archive for 2014

動きから始まる。

2014.11.24

『インターステラー』を観ました。宇宙だとか、人類を救うとかの話というよりかは、親子の愛の話で、ハッピーエンド(と思えました)に持っていく手腕は、さすが、映画好きな監督だと思った。
 
人にはたくさんの「守る」ということが存在する。劇中に出てきたように、子、仲間、人類。それに友達や家族。人間の集まりである会社や国であったり、人の想いの結晶である企画なんかも、守る対象になる人もいるだろうし、権威などに派生して守るものが増える人もいるだろう。
 
僕には子どもがいないが、親が子どもを守ろうとする力は、群を抜いてとても強いように思える。僕が子どもの頃に病気になった時、送り迎えをしてくれた母。家から遠い入院先に、見舞いに来てくれた祖母。仕事をし続けた父。それぞれに想いがあり、それぞれの役目を全うしていたように感じるのだ。20代も中頃になり、それがわかった時、「あぁ、守られていたんだなぁ」と深々と感謝したのだった。
 
そんな家族の「守る」ことと同じように、子どものいない僕は、仲間や友人、社会を守ろうとしている。そして、守るということには、「変える」ことで結果、守ることが達成されることもあり、変えるためには、「動く」ことが前提になる。
 
『インターステラー』でも、動くことから始まり、未来を変え、子どもを守った。同じように、僕らは動き、社会の雰囲気を変え、次の世代を守ることを選んだ。

鈍化。

2014.11.23

記憶になってしまえば、昨日も、十年前も同じになってしまう。たくさんことが事実のように思えて、嘘のようにも思えてくる。だからこそ、大切な人の別れも、恨みつらみの経験も全てが小事のようになってくる。
 
お昼に1,200円を超えるパスタを食べ、夕飯に300円に満たないパスタを食べた。不思議とどちらの味も美味しいとは思えず、そうすると、300円で良いように思えてくる。
 
不思議なもので、だからと言って300円のものを食べ続けると、そういう舌になってくるのだ。1,200円が上等とは言わない。だが、それだけの金銭を払うだけの価値がある味でもあったのだ。いや、場所代に金を払ったということだ。それが対価だということだが、いやはや、本当に美味しいものをじっくりと堪能していない。
 
最近、性欲が極度に低下している理由と関係があるのだろう。先月のぎっくり腰から、運動を控え、美味しい食事を堪能することがなくなったことと関係があるのだろう。
 

親父の酒。

2014.11.15

ふと、親父のことを思い出した。僕には1つ、確実に親不孝をしたという思いがある。それは、親父と酒を呑んでいないということだ。僕には姉と兄がいるが、三姉兄の中でも親父と酒が呑めるタイプの人間は、僕しかいない。
 
団塊世代の親父は、根っからの仕事人間で、朝早くに家を出て職場に行き、仕事が終れば、何か特別な飲み会がない限りは家に帰ってきて、晩酌をしながらテレビを見ている人間だった。
 
親父が言ったことは絶対だったし、大柄な体格と仕事熱心さも合わさって、早くから校長に上り詰めた。学校という職場だが、僕らへの教育が熱心だったかというとそうではなく、自分がやりたいことを熱心にやっているタイプの人間だった。
 
そんな親父が晩酌で呑んでいたのが、キリンラガーの大瓶だ。
 
僕もビールは好きだったが、ロックンロールへの偏愛もあって、ハイネケンばかりを呑んでいた。しかし、親父が肝硬変になり、一滴も酒が呑めなくなったことを知ってから、何故か選ぶのは、キリンラガーになった。
 
意図して選んでいるわけではないが、親父が病気になったとき、唯一の愉しみのように見えた酒が今後一切呑めないと知ったとき、僕には大きな申し訳ない気持ちが芽生えたのだ。後悔とも言い難い、悲しさとも言い難い、何とも難しい気持ちだ。
 
その気持ちが芽生えてから、僕は、キリンラガーを選ぶようになっている。
 
今では、親父はノンアルコール飲料を呑んでいる。

無償の愛の時間。

2014.11.9

時間ということにおいて、「仕事の時間」、「生活の時間」が分かれているのが普通だろう。しかし、僕にとって仕事は生活であり、生活を潤そうと思ったら、仕事をしていることを選ぶ。つまり、僕においては、仕事の時間と生活の時間は別個の時間軸ではないのだが、「家族と過ごす時間」は、別になっている。
 
「仕事を家に持ち帰るタイプ」と昔からよく言われている。付き合っている人がいたら参考意見を聞くし、実家に帰っても仕事の話をする。僕は大分、放蕩息子だったが、それでも家族から信用を得られたのは、常に自分のしていることの話をしてきたからだろう。浪人をしてまで入った心理学の道ではなくて、写真の道に進み、全てを合わせてクリエイティブの道を開こうとしている。今まで生きてきたことを繋げて考えることが出来るのも、僕が常に仕事をしてきたからだと自負できる。
 
ただ、ふと感じるのは、「家族の時間」が少なすぎるような気もしているのだ。昨夜、映画を見ていて、ホストに金を使っている仕事人間な金持ちのおばさんが、「私の母は58歳で閉経した。私もそろそろ58。私は自分が育てた男がトップに立つのを見てみたい。」というようなことを言っていた(と思う)。
 
仕事には、「育てる」ということはあっても、「育む(はぐくむ)」ということはあまりない。家族のように無償の愛というもので、時間とお互いの関係を育むということがないのだ。その寂しさの連鎖が、昨日の映画の中にあった。最近感じていた寂しさの要因は、家族のような無償の愛を、誰にも与えていないことかもしれない。

時間

2014.11.8

時間が惜しい。何かをしてその分、時間が生まれると快感を抱く。だがそれもおかしいもので、24時間は誰にでも平等にあるはずだ。それが足らなく感じるのだから、自分がいかに無駄をしているかってこと。
 
もっと効率良く生きられたらと想像するが、もしそうだとしても、この性格が直らなければ、動き続けるのだろう。最後の最後まで仕事をしているのだろう。
 
ただ思うのは、星空を見る(想像する)時間をつくるってことだ。