Archive for 2014

昨夜

2014.5.5

半年振りの友人と、酒を呑んだ。その後、一時間ほどカラオケに行ったのだが、これも数年振りのカラオケだった。モニターはブラウン管から薄型液晶に変わっており、上に乗っかってダイブすることも出来ない時代の変化に、微かな怒りを覚えた。体型こそ変わらずとも、歌うことを忘れている喉と腹は3曲目くらいから声が出なくなり、気持ちの方が逸(はや)っていた。しかしだ、それでも歌い続ける姿を見ていた友人が、「歌っている姿は大学の頃と変わらないな」と言ってくれた。
 
「ワールズエンド」という、酔っ払いが世界を救う映画を直前に見ていたので、「学生時代に成し遂げられなかったバカなことを、中年になって再び挑戦する」という内容が重なった。
 
あの頃成し遂げられなかったこと——考えてみても、思いつかないのは、全速力で生きてきた証拠だろうか。それとも、ただ単に、忘れているだけだろうか。
 
僕はたくさんのことを忘れる。正確には、前意識の引き出しにしまっておくのだ。なので、話途中で「あぁ!」と思い出す。それはたしかに多い。全力においては、大抵のことは全力で臨むようにしているが、歌うことも全力でやってしまうということだ。昨夜気が付いたのは、歌うことばっかりは、後先考えることができないまま、今に至るようだ。あれしか歌っていないのに、今日は喉がガラガラだ。

真実

2014.5.3

マッサージを受けながら、「今日が最後の日だったら何をするだろう」と考えていた。「マッサージを受けている」のだから、「何を」するでもなかろう、とも思ったが、能動的に体を動かすこととして考えるようにしてみた。
 
すると、「写真を撮る」だった。
 
作品のことも、職業のことも全てを放り出して、写真を撮りたいと思った。
 
被写体もカメラも、何でもいいのだ。
 
それが、真実だ。

洗脳されないために

2014.4.27

「持たない自由」があるのなら、「持つ自由」もあるはずだ。要は、「自由があること」に気付くかどうかってことなのだ。消費社会に飲み込まれているように、「持たないこと」に躍起になることも、同じように洗脳されているだけだろう。どちらも「アリ」で、その都度、どちらを選んだり、折衷案を生み出すかどうかだ。

世界が許すこと

2014.4.20

気づけば4月も終わりを迎えそうで、このペースで年末になっていくのだろうと思うと、「人と有意義な時間を過ごしたい」と思うことが強くなる。

コミュニケーションは誤解で成り立っているものだが、心地良い共感が双方にあるかどうかが鍵になる。伝わりすぎても疑念が生まれるし、理解されすぎないのも苛立ちに発展する。それは双方ともに責任を持っているのだが、心地良い誤解で進んでいくためには、許容する心の大きさにかかっている。

しかし、「コミュニケーションは伝わるもの」だったり、「伝わらなければいけないもの」と思っていると、伝わらない雰囲気に耐えられなくなる。

つまりは、諦観の見方をどれだけ持っているか、そのためには多くの壁とぶつかってきたボロボロの心身を有することになる。傷を舐め合うだけのことを世界は許すことができるのだろうか? いつの間にか世界は隣人を疑い、友人を疑い、弱みを見せないでいることしかできないものになってはいないだろうか?

生きるための心地良さ

2014.4.18

最近、週に一回は決まった時間にセンター北にあるカフェに行っている。ラフを描いたり、その週の予定をまとめたり、今後の展開を考えたりなど、仕事のベースとなることをこの場所で片付けていることが多い。居心地がよくテーブルも広く、アイスコーヒーの量も多く、店員さんも素敵な人達が多い。それにも関わらず、気になるほど混んでいるわけでもなく、むしろ時間帯によってはお客が2〜3人のときもある。
 
ここもそうだし、マッサージも、飲みに行く場所も全て、住んでいるところから電車も時間もかけてわざわざ行くところである。
 
数年前までは考えられない事態だが、場所や居心地にお金と時間を払うということは、何ら苦にならなくなっている。それよりも、残り少ない人生、心地良さが必須になっている。インスタントやコンビニエントである利点を重視するときもあるが、人はそれだけでは灰のようになってしまう。生きるには、心地良さが必要なのだ。