世界が許すこと
2014.4.20日々のこと気づけば4月も終わりを迎えそうで、このペースで年末になっていくのだろうと思うと、「人と有意義な時間を過ごしたい」と思うことが強くなる。
コミュニケーションは誤解で成り立っているものだが、心地良い共感が双方にあるかどうかが鍵になる。伝わりすぎても疑念が生まれるし、理解されすぎないのも苛立ちに発展する。それは双方ともに責任を持っているのだが、心地良い誤解で進んでいくためには、許容する心の大きさにかかっている。
しかし、「コミュニケーションは伝わるもの」だったり、「伝わらなければいけないもの」と思っていると、伝わらない雰囲気に耐えられなくなる。
つまりは、諦観の見方をどれだけ持っているか、そのためには多くの壁とぶつかってきたボロボロの心身を有することになる。傷を舐め合うだけのことを世界は許すことができるのだろうか? いつの間にか世界は隣人を疑い、友人を疑い、弱みを見せないでいることしかできないものになってはいないだろうか?