Archive for 2013.1

カレーの話

2013.1.8

僕が話す必要もなく、カレーというのは、日本でかなり愛されている料理だ。食べる方でも、作る方でもここまで愛されている料理というのは珍しいのではないだろうか? 僕の場合でも同様で、それを知っている友人は、僕をカレー屋に連れて行きたがらないほどだ。そう、僕は食べるのも、作るのも大好きなのだ。
 
小学校の頃は、家の作るカレーかレトルトカレーか、給食のカレーしか食べておらず、「どちらかというと、給食のカレーが一番好きかな」というレベルだった。しかし、浪人時代に予備校近くにあった(今は閉店してしまった)カレー屋のカレーを食べて、僕のカレー好きが始まってしまったのだった。そこで働いている店員さんが可愛いというのも手伝って、僕はよく通っていたのだが、その話はまた今度。
 
浪人時代は勉強漬けの毎日だったので、カレーを食べるだけの日々だったが、大学に入学してからは「カレー作りの日々」も始まったのだった。しかし、まだ若かった。当時の僕は、美味さの追究を「付け足して手に入れるもの」だと勘違いしていたのだった。当時としては、「美味いな~」と思っていた味も、今考えてみると若さ故に感じていた美味さであり、カレーだけでは辛みに深みがなく、様々な調味料を足していた。そして、仕事をするようになって、カレー作りに時間を割くことが出来なくなるようになり、カレー作りをサボるようになってしまっていたのだが、昨年の夏、僕は再びカレー作りを追究するようになったのだった。
 
その時の僕は、既に「引くこと」を様々な分野に応用できるようになっており、カレー作りを再開する際も例外ではなかった。大学当時に足していた調味料は一切使わず、スパイス選びから始まり、数種類のスパイスを使うだけで深みのある辛さ、旨味のある辛さを出すことが求められた。煮込み時間をあまり必要としなくてもいい、簡単に、シンプルに作ること……作ることにおいても「引くこと」が求められる。そうして約一ヶ月の間、カレーばかりを食すことになった末に完成したのが、「マサルカレー2012」だ。
 
玉ねぎを弱火でじっくりと飴色に炒める必要はない、ただ「こんなんで大丈夫か?」という不安や恐怖に打ち勝つことが求められる、それが、このカレーを作る秘訣だ。不安や恐怖に打ち勝つことで完成するカレー、それが「マサルカレー2012」である。
 
「マサルカレー2002」から10年目、僕は新たな次元に入っていた。

中平卓馬さんの言葉が素敵に思える

2013.1.7

中平卓馬さんの文章を読んでいるのだが、これが面白い。きっかけはある事柄の調べもので、その事柄について中平さんが書いていることを知り、その文章を読み始めたことからだったのだが、他の文章においても「面白いなぁ〜」と読み始めている。
 
書いていることは批評だ。けれども、社会や業界のことを交えながら、「では、自分は何をするか」という内容が多い。そして疑問に思ったのだが、中平さんに続く人が出てきていないのは何故だろうか?
 
写真家を選ぶ人種が文字を残したり、出版したりすることは多い。けれども、そのどれもが、「私小説」や「随筆」の類いで、批評と書かれているものを見つけても「それはアナタだけにしか通用しないよね」という感想を持たざるを得ないものばかりである。その後、中堅以降になってくると文字すらも扱えない人達になり、その傾向は加速されている。
 
なぜだろうか? と考えてみると、職業の細分化と言葉の氾濫、メディアの氾濫の加速と重なっているように思える。誰が見ているのかもわからないままに、発表することや人に見せることが当り前になり、その媒体は安っぽくても構わないようになっている。同様に、職業に就いた人は、ただただその分野にだけ従事しているようになり、他人と喧嘩をしないがために口を出すこともしなくなった。口を出すことによって、いざ口を挟んだ時には、礼儀を欠くようになっている。つまり、人を軽視するようになっている。
 
社会というと、とても曖昧なものになってしまうけれど、人を考えて自分の話をするというのが、よき批評に繋がるんじゃないだろうか。

「調子に乗る」ということ

2013.1.6

「調子に乗る」という言葉は大抵、悪い意味で使われるけれど、僕はこの言葉がわりかし好きだ。「調子に乗る」ということをするためには、前提として他人がいなくてはならない。「俺、調子に乗っているな」と思った場合でも、他人がいる現場を想像しているはずだ。そうして、「あいつは調子に乗っているから痛めつけてやろう」だとかっていうときに使われる言葉だが、「調子に乗る」ためには、周りにいる人達のことをみていないか、信じきっていなければ出来ない行いのはずだ。
 
今の時代、誰かの目を気にすることが多いと聞こえる。そして、そのことで話したいことを我慢する人達もいるようだ。他人の目を気にするのとはちょっと違うが、僕だって「●●さんは、何を幸せとするんだろう?」とか、「▲▲くんは、何をやりたいんだろう?」などと考えることがある。けれども、僕の場合は、話したことで始まったり、わかったりすることがあることを知っているし、話さなきゃ始まらないことがあることも知っている。それは、話し相手のことをわからずとも、信じるしかないと思っているから出来ることなのかもしれない。そして、「あいつは調子に乗っている」と説教をいただいたとしても、「まぁいっか」と聞き流すことの方が多い。
 
それもこれも、話さないことを選んで、信じることが出来なくなることの方が、僕は恐ろしいことのように思えるからだろうね。「調子に乗る」っていうのも、悪いことだらけじゃあないってことだ。

歴史の深さ

2013.1.5

生業としていることを他人から誉められても貶されても、的外れな感じがして釈然としないことが多い。なので、なぜそのような誉め方(貶し方、説教)になるのか考えてみたら、以前書いたような「責任の在処」と関係しているようだ。
 
結論から述べてしまうと、「業種の歴史の深さ」に起因しているようだ。僕ら写真家は写真の歴史(約200年)が前提となるが、そこだけで終らず、絵画の歴史、洞窟壁画の歴史——つまり、人間の歴史が僕らにのしかかった上で、新しい作品を生み出していく。
 
自分の人生は自分自身で引き受けなきゃならないのは、全ての人に共通だとして、僕らの場合は仕事に、こうした歴史や先達の偉業を繋げていく役目が出てくる。今では分かれてしまって、歴史ではなく、上っ面の目新しさを優先してきたデザイン業界においても昔は同じだったはずだ。そう、僕がやっていることは、実はとても古典的なやり方で現代の技術を合わせているにすぎない。その中身の考え方は、先人達の遺産を含んで、新しい考え方(今や、今後必要となる考え方)を提示しているつもりだが、手を広げているだけというのとは違う。
 
現代の人達が勤しんでいる職業というのは、(リーマン社会というのもあって)近現代に誕生したものばかりであり、歴史が浅く、「歴史を背負う」ということを理解できないのは仕方がないとしよう。しかし、デザイン業界(カメラマン業界、広告か)にいる人間からそのようなことが起きるのは、いかがなものか?

コツコツコツコツ…

2013.1.4

「技術」が大好きだ。
 
一般的に「クリエイター」や「アーティスト」と呼ばれてしまうようなことを生業としてしまうと、どうしても「アイディアが奇抜」だとか「イマジネーションが豊富」といった、頭の中の特徴に注目されがちだ。
 
けれども、職業としていない人達が思いつかないような発想も、コツコツと技術を積んだ結果だと僕は思っている。例えば、数学で、小学校時代に「1+1」や「15×320」などの四則演算を学んだ結果、「x」だとか「y」だとか、はたまたよくわからん記号が並んじゃうような数式も解けるようになっちゃうようなものだと考えられる。小学校では「算数」と呼ばれていたものが、「数学」とちょっと小難しく呼ばれるようになるのと同じように、僕らの技術も最初は大したものではなく、小難しい数式も解けるようになっちゃえば、何てことはないものになってしまうように、他の人からみた特技も僕らにとってみたら大したものではないのだ。
 
しかし、僕らが大したものではないと言えるようになるまでには、先の見えないままコツコツと修行を積む時間が必要不可欠なのだ。ドラクエのレベル上げのように、悟空(ドラゴンボール)の修行のように。すると、今までは強敵だったモンスターも、デコピン一発で倒せるような感覚で、今まで高い壁としてあった事柄もラクに飛び越えられるようになり、むしろその壁さえも使って別の壁を突破できちゃったりする。
 
それもこれも、コツコツと修行を積む時間と労力が必要なんだよね。