Archive for 2013.1

白盤更新

2013.1.21

白盤更新しました。
 
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会話

2013.1.20

死についてよく考える。けれども、それは世間一般的なマイナスのイメージや禁忌の雰囲気を帯びるものではなくて、亡くなった人達と会話をすることだ。僕はまだ30歳とも言えるし、もう30歳とも言えるが、それでも現代日本の30歳の人達と比べると、周囲で亡くなった人達は多い方かもしれない。事故、病気、自殺……最期まで憎しみを抱いていた人、笑顔だった人、何とも言えない表情だった人……様々な死に方があったけれども、それでも皆、今でも話をしている。
 
笑顔だったり、安らかだったり、ハッパをかけてもらったり……色々あるけれども、みんな優しいね、と思う。そうして、会話の最後には「こっちのことは安心しなよ」と言って締めくくるんだけど、彼らが安心してみていられるような生き方というのが、一番なんだろうな、とよく思うようになった。
 
ポジティブを見せなきゃいけないとき、ネガティブに考えた方がいいときはあるのだろうけれど、真ん中の気持ちでいるときは安らかだ。安らかってポジティブに入るんだろうけれど、静かに、恐れや不安がない状態でもある。そんな作品があってもいいような気がしている。

今後

2013.1.19

「The 30 years work」が手放しても大丈夫だと思えるようになってから、腰を据えて制作に望むような気持ちになれないでいる。
 
大抵の物事が「アート」という言葉に吸収されてしまう現代で、写真家としてこれからどうあるべきか。美術や藝術の歴史を背負いながら何を作り、次の世代に何を残していくのか。そんなことばかりを考えている。「享楽的」と「楽しい」は異なり、「ありのまま」と「無理のないかたち」は異なり、「インディペンデントの乱立」と「個が立つ」は異なる。これらにおいて、不健康にみえる現代に溢れているのは前者であり、その状況を打開するためには、後者が必要になってくると思われる。
 
スケール感や実際にスケールが大きいことが必要だし、個が立たなければ、一つインディペンデントなものが増えるだけになってしまう。英訳をしていて、その答えが徐々に見つかっている気がするが、果たして……。
 

 
英語は僕の母国語ではなく、昔から慣れ親しんでいる言語でもない。それ故、英語を扱うときは少々の面倒臭さがあるので、なるべく簡潔に言いたいことだけを言うように働いてしまうのだが、余計なことを考えずに済むので、自分でも気付かされることが多々ある。
 
「ギフト」シリーズの英訳をしていると、「Photography」というワードをすんなりと使える。通常、やはり、生業としているものの言葉を使う際は、他のどれよりも気を遣ってしまい、婉曲させて話すことがある。
 
「Photo(光を)」+「Graph(描く)」、それが楽しい。
「Photography(光を描く)」、なんて美しい言葉なんだ、と思った。
 
それは今でも変わらなし、これがキーになると予想している。

真ん中の意識

2013.1.18

自然の中に入り、自然の相手をしていると、失った体や魂も徐々にだが中心を見つけて戻ってこれる。たとえ、人工物の中にいたとしても、自分の体は自然なのだ。こんなにも近くにある自然の中に入らないでどうするよ、ということさえも忘れてしまっていた。それほどまでに、捕われていたのだ。
 
体を回復させるために休ませていた体――鈍くなった膝には軽い痛みがあったが、日を浴びながら一歩一歩、ゆっくりと歩き、歩いては立ち止まり、空を見上げ、後ろ向きに歩いては空を見上げることを繰り返しているうちに、膝の痛みも和らいだ。
 
失った体、失った力は元通りには戻らないが、ゆっくりと回復させればいい。そうしたら、以前よりも道が広くなっているはずだ。体という意識ではなく、天と地の真ん中にある意識だ。そうしたら、自然と必要なものが作られる。

特殊で終らせていいの?

2013.1.17

「お前は特殊すぎるんだよ」と言われる。
 
アーティストに対する偏見もあるだろうが、作品をつくることに懸ければ懸けるほど、市井で必要とされる能力が欠落していなければならないとする風潮がある。政治やお国のことは、本当はどうでもいいことと思っているのは確かだが、「コストとメリット」を「労力、時間、経費、感情」の点から考えることをするのは、何かに懸ければ懸けるほど出来るようになるんじゃないだろうか(使用する言葉は違えど)。その力を「特殊」とされてしまうのは、偏見が強過ぎるか、懸ける力が弱いから出来ないと思ってしまう。
 
ダ・ヴィンチ、モーツァルト、ピカソ、ゴッホ、クレー、ブルトン、デュシャン、タルボット、マン・レイ、宗達、永徳など数え切れないほどの人達にもその力があったことは、記録を読めばわかる。
 
それに、ヘンリー・ダーガーでさえ、論理があったし、人の立ち場に自分をおいて感じてみる能力があっただろうよ。
 
不感症すぎやしませんか? それとも、やっぱり俺が特殊なんですかね?