Archive for 2009

教育の場

2009.2.17

ここ数日、展示をいくつか見ている。その最終日、鳥が真ん中に鎮座しているテーブルの居酒屋で友人たちと呑みながら、話をしていた。そこででてきた話題の1つに、「ピンキリ」と「教育」ということ。キリの人たちがいなければピンとされる人たちが生まれることもないが、キリの人たちの底上げをするためには、教育が必要だということでもある。

小・中学校までは美術の科目や音楽などの科目から、たとえ初等教育だとしても美術と藝術について古典的なものから触れることとその技術的なことを学べる場所がある。それが、普通科の高校に入った途端にアートと呼ばれる、何でもありだが陳腐なカルチャーがとってかわる。何故教育が必要かというと、底上げが、ピンの方々が生まれる底上げにも繋がり、結果、その業界自体の底上げにもなるからだ。また「氾濫」という言葉が日本語にあるように、エントロピー概念を挙げなくても、われわれは価値が低くなる状態のことをわかっているのである。

いくつかの企画が始まりつつある中で、自分が活動することへの想いと責任を改めて感じつつ、今日はいくつかの文章を書いていた。

※ 新宿にあるcountzeroというbarで三木善一さんが個展をしています。月末までで、http://countzero.jp/から詳しい内容とインタビュー動画を見ることが可能です。是非、観に行って作者の方とお会いすることをお勧めします。

視認できない大切さ

2009.2.13

最近、今までの作品をまとめて見て頂くことが何度かあり、その度に似たようなことをおっしゃっていただけるので、自分の歩んできた道が“ある側面”では誤りではなかったのかもしれないと思った。

このような(“ある側面”)言い方をすると、そんなのは当たり前なのだけれども、自分が大事にしていた心持の面が他者の口から現れてくると、作り手としてはやはり嬉しいものだ。

たとえば、今日は一日、PCで創作をしていたのだけれども、最近の手法とついこの前までの手法が上手く組み合わさって進んだ。ちょっとしたことなのだが、日々の積み重ねが昇華のための基盤になる。高く飛ぶためには翼が必要、翼をつくるためには一枚一枚の羽(羽毛)が必要、その羽を作っているのは、視認できないほどの細胞であり、日々の積み重ねは視認することができないで流れていく。

それはPCを用いようが、筆を用いようが、カメラを用いようが、どんな媒体のことでも当てはまる。

必要なのは意識して動くこと、作品に向かうことだろう。

ごぼうのたのしみ

2009.2.10

ある一枚にかなり時間がかかる。途中で黒澤明監督「姿三四郎」を見ていたからかもしれないが、それにしてもかなりかかった。今、BSにて黒澤明特集をしていて、黒澤監督作品がかなり放送されている。

それらを横目に、きんぴらごぼうを作ってもいた。牛蒡(ごぼう)も好きだ。ささがきをし、水に浸して作るが、どうやらそれほどの灰汁はなく灰汁抜きにはならない。ただ、ひたすらささがきをした後の指はどれほど洗っても牛蒡臭く、その臭いを嗅ぐと、自分のしでかしたことを思い出させる。それは、自分の歩んできた過去が着実にあったという痕跡でもあるようで、少し懐かしい気持ちになる。感覚が、地に足着いた現実感を生み出すことの、良い例なのかもしれない。

そういえば、きんぴらごぼうという料理は、いくつかの香りが上手い具合に合わさって作られている。鷹の爪の、少々刺激的な香りがまず感覚に届き、その後、ごま油とすりごまの香ばしく甘みを含む香りがにんじんの甘みと合わさり、最後にメイン食材のごぼうが立ち上ってくる。それは、ごぼうの食感を楽しめば楽しむほど、香りの変化も楽しめるような料理でもある。

今述べたように、ごぼうの良さは、香りだけでなく食感にもあり、むしろこちらの方がごぼうの印象として強いのかもしれない。ごぼうの食感の方を楽しむのであれば、漬け物、たたきごぼう、ごぼうサラダ、揚げ物などが挙げられるだろう。実はこれらの食感は微妙に異なってきて、出汁で煮たごぼうを揚げるのは普段と異なる食感で頂ける。このときはごま油を使わずに普通のサラダ油の方が、邪魔にならない。これをアテにして焼酎を呑みたいが、それほどのものを作ると、食事を作ってしまい、なかなか粋とはいえない。

いつの日か、粋な人になりたいものだ。

「最期」にくること

2009.2.9

今日は一日、『最期の自然』を進めている。漸く二回目のペイントまでが終りつつあり、PCに落し込んでいく工程も終りつつある。

しかし、それは作品が終わりに近づいていることでもあり、おそらく三回目の工程で終ると思われる。しかもこの速度で推測すると、3月末か4月初めにその時がくるだろう。

今まで僕は「最期」という単語を作品には使用してこなかった。それは「最後」という言葉ではないし、どこか畏れと貴さがある言葉だからだ。それは辞書をひらけば容易に調べられる意味なので、ここでは述べないが、やはりそんな予感がする。

それでも、その時が来ることを、僕は望んでいる。

笑顔と透明感

2009.2.4

昨日は、下絵を描き、お昼に恵方巻を丸かぶりした。今年の恵方は東北東だそうで、そちらを向きながらモシャモシャ、モシャモシャ、モシャモシャ・・・・・・?願い事って何だ?東北東にはパネルの作品があり、彼らを見ながらモシャモシャ、いつまでたっても口から恵方巻を外すことが出来ないでいた。願い事を考えていると、幸せって何だ?という方向に疑問が変わっていき、あぁじゃあ「幸せになりたい」で願い事はいいかと決める。そして、無事に食べ終わる。

その後、買い出しもあったので銀座へ石川マサルさんの個展を観に行く。1つ1つの作品へのコンセプトがしっかりと構築されており、しかも透明感があった。岩清水のような、出会った時に人の中にすっと染み込んでくるような作品たちだった。ご本人が会場にいたので、少しばかりの立ち話をしたら、作品と同じように、透明感のある人だった。

会場を出た時に、買出しの物たちをどこかに忘れてきたことに気付き、狼狽していると、地下にある駐車場の守衛さんに「もしかして探し物?」と尋ねられ、忘れ物が届けられていたことを知る。無事にそれを受け取り、守衛さんたちと笑顔で別れ、新宿へ向かう道でふと思う。

「幸せって何だ?」と。

僕は作品を創ることが出来ている、それを幸せというのかもしれないし、身体を動かすことにそれほどの不自由を感じることがないことが幸せなのかもしれない。もしくは雨風を防げるところで眠ることが幸せなのかもしれない。
もしもそれで幸せ度を計るのならば、とても相対的な感覚ということになってしまうが、相対的な要素しかないならば、かなりシラケてしまう。
けれども、相対的な要素を排除することは難しいし、絶対的な要素だけであったら、僕は生涯、幸せを感じることはないのかもしれないとさえ思えてしまう。

とても純粋でとても美しい人ほどあっけなく、そして短く逝ってしまうことを知っているし、自分が望んでも無理なことも身近にある。それとともに、嬉しい=幸せ、と直結させることもどこか腑に落ちない。

とりあえず、僕がしなければならないことは、目の前の作品に集中することだと結論が下るのは、いつものことだ。