Archive for the ‘心の健康’ Category

ひとりの人の世界が広がったら嬉しい。

2018.9.29

う〜ん、何を書こうか迷っています。
迷っているというか、説教ぽいことが思い浮かんでいるのですが、それは書きたくないな〜と筆が止まっている状態です。
んで、止まっていることを正直に書いてしまおうというのが、今日の内容です。
まったくもって薄い内容になるかもしれませんが(はじめから期待していない!?)、ちょっと本日はお付き合いいただけると嬉しいです。
筆を止めた理由は、「誰かを攻撃しそうだな」と「自分の手柄を言いそうだな」ということを感じたからです。
誰かを攻撃しながら、自分の凄さを示すようなことは、ネットの中では当たり前に起きていることですが、このブログがそういう世界になる必要はないよな、と思ったのです。
なんか面白い、なんかタメになる、なんか暇つぶしになるなど、なんでもいいのですが、ブログを読んでくれているひとりの人と、近い存在でいたいのです。
ちょっとだけでいいから、世界が広がったら嬉しいのです。
ひとりの時間は大切ですが、ひとりが飽きたら、ここの存在を思い出してほしいのです。
ただただ、そういうブログでありたいのです。

モノと人、そして、人。

2018.9.26

いろんな案件を経験してきて気づいたことがある。
 
「モノをつくる方が感動する」
 
感動するのは依頼人や生活者、つまりすべての人だ。
これがwebやアプリなどになると、途端に感動的なシーンにならない。
これは媒体による差が大きい。
webやアプリなどの場合、オリジナリティを極力排除することで、使いやすさが向上するのが定石だ。
使い心地に何も感じさせないことが、一番使いやすいともいえる。
交通系ICカードのように、人を介しないサービスの鉄板ごとともいえる。
 
しかし、感動というのは、一種のつまずきだ。
たとえば、感動の種類として「美しい」というのがあるが、いちいち「美しい」と感じていたら、使い心地もあったものではない。
美人は三日で飽きるといわれるように、飽きないようにするのが感動だ。
「かっこいい」や「かわいい」も同じだ。
そして、「美しい」や「かっこいい」などの言葉が出るのは、決まってモノをつくっているときだ。
 
「これならイケる」と依頼人も含めて感動するのは、モノのときだけだ。
けれども、発売した後に改善をするのはモノでも、モノじゃなくても起きる。
それでも、感動という差が生じてしまう。
さらに言えば、モノじゃなくても、接客業のような人を介したサービスも、モノと同じような感動がある。
 
モノであることと、人と人とのコミュニケーションであることは、人が抱く心地として何か共通のものがあるのかもしれない。
 
モノと人、そして、人。

雨の日のバロメーター。

2018.9.16

雨というのは、こころの健康を測るバロメーターになっているかもしれません。
あまり気分がすぐれないときに雨が降っていると、予定を狂わされたかのような錯覚を覚えます。
けれども、気分がいいときは、「雨の日も風情があるよな〜」なんて呑気なことを思っています。
どちらがいいかと言ったら、そりゃあ呑気なことを言っているほうでしょう。
涼しくなったことを寒いと感じるときも、こころの調子がいいときではないかもしれませんねー。

議論よりも話し合い。

2018.9.15

白熱した議論ではなく、建設的な話し合い。
企業との打合せで話されることは、すべて仮説です。
結果報告だとしても、たまたまその結果になっているだけで、同じ条件を揃えたら同じ結果になるとは限らないのです。
だから、強い言葉はなるべく使わないようにしています。
一側面だけを取り上げたら正しいでしょうが、別の側面から見たら間違っているなんてことは、普通にあります。
それでもぼくらは何かを決めなきゃいけないし、Aを選んだのに実はBの方がよかったね、ということも後からわかったりするものです。
これが事業というもの。
だから、強い言葉で議論の応酬をするのではなく、弱い言葉だとしても、相手と話し合うことの方が、いいチームになっていきます。
白熱した議論ではなく、建設的な話し合い。
だからって、口だけ動かすのも違いますけどねー。

弱い言葉をつかう。

2018.9.12

昔、シャープのツイッター担当者の方の話を聞くことがあって、「弱い言葉を使うことを心がけている」と言っていたのが印象的でした。
世の中の炎上事の多くは、「強い言葉」からはじまります。
これは現実の言葉のやりとりでも同じです。
炎上事の中には、炎上させるつもりはなかった場合もあるはずです。
けれども、相手がどう受け取るのかはわからないのです。
立場や状況もいろいろです。
人生もいろいろ。
こんな、たくさんのいろいろが掛け合わさることを、言葉を受け取る相手や言葉を発する相手が想像しているのかが、鍵なんですよね。
いまのビジネスの現場は、日本語を使っているのに、英語のように端的に伝えるのを良しとしている傾向があるでしょう。
すると、冷たい強い言葉ができあがるのです。
日本語とは本来、述語的なものです。
ゆらゆらゆらゆらしていい言語なのです。
とまぁ、毒にも薬にもならないような話をしてしまいましたが、強い言葉を使っている自分の方が、じつは弱い存在になっているのかもしれませんね。
ぼくも気をつけようっと。