Archive for the ‘心の健康’ Category

怒りを抱かないと、退屈になる?

2019.10.20

気づいたことがあります。
最近のぼくは怒りを持っていない。
怒りを持っていないと、平和になります。
けれど、平和になると、退屈です。
これに気がつきました。
オーマイガ。
 
そうすると、退屈な物事を引き寄せることに気がつきました。
再びオーマイガ。
 
こうなると、原因を探りたくなるのが、人間の性というかぼくの性分です。
すると、ひとつのことが分かってきました。
怒りを持っていたときは、がむしゃらに生きていた。
努力を惜しまないし、人と闘うことも避けないし、勝ち取ることが好きだった。
協力することやコラボレーションも好きだった。
今は、そのどれもが面倒臭いとは言わないまでも、自分からはじめようとは思わなくなっています。
こうなる時系列と、怒りを持たなくなる時系列が、まったく被っていたのです。
 
もうひとつ被っていたのが、運動をしなくなったこと。
筋トレとランニングの頻度が下がり、負荷の軽い運動になり、ストレッチだけになり、腰痛ケアのためのストレッチだけになり、今は何もしなくなりました。
覚えている感覚として、筋トレやランニングをしていた頃は、これらをしていると「怒り」を感じていたということ。
だから、運動をしている最中は、自分を鼓舞していました。
悪く言えば、自分を罵倒しながら運動していたのです。
今は、それがまったくありません。
 
どっちがいいのかは今のところわかりませんが、退屈を感じているのなら、また運動をはじめようかと思っています。
とりあえず、昨日はちょっとやりました。
続くのかな〜。

おもちゃに感心している。

2019.10.18

最近、「おもちゃ」を触っていて、改めてすごい分野だと感心しまくっています。
平日、おもちゃ屋に行くと、お客さんが入っているんです。
ゲームセンターもお客さんが入っています。
電車の中ではどれだけの人が、スマホゲームをしているでしょうか。
YouTubeの、ガンプラ作りがうまい人の視聴者数はものすごいです。
昨日、ぼくはこんなことを書きました。
 

これで困っている人が助かるとか、持続可能性の社会が推進されるとか、生産性が高まるとか、そんなことにならないことを始めたかったのです。
(中略)
直接的にも間接的にもメリットがあると言えないようなことを、みんな、心の奥底で欲しがっているでしょ?

 
日本で長く続いている閉塞感と、いいことしている感と、俺たち勢いある感……実はもう、これらに対して、居心地の悪さを感じているでしょう?
いい景色を見に行っても疲れちゃうし、美味しいものを食べても、観たい映画を観に行っても、何かを言わなきゃいけない。
いいんです。
美味しいものを食べたら「おいしい」だけで。
映画がよかったら「よかった」だけで。
人に勧めたいと思ったら、「おいしいから、食べに行ってみるといいよ」だけで。
「どんな風に美味しいの?」と聞かれたら、「食べてみないとわからないよ」と答えればいいんです。
 
本当は、この役割をアートが担える可能性があったのに、作り手も受け手も何かを考えなきゃいけない。
考えて話せば、知的に見え、自尊心が保てる。
オークションによって、投機の役割を担うようになった。
だから、アートにはちゃんとメリットがあるんです。
自尊心というメリットがある点は、読書家も一緒です。
そして、今の世の中は、メリットだらけです。
メリットなど必要ないところまで、メリットだらけです。
パチスロだって、読書だって、ジョギングだって、持続可能性だって、メリットだらけです。
これを、ほとんどの人が気がついているけれど、口に出せないでいる。
気がついていなくても、モヤモヤが生まれるようになっている。
 
話をおもちゃに戻すと、おもちゃの楽しさを人に話そうと思っても、伝わらないことに気がつきました。
それでも、おもちゃの人口は確実にあるし、その業界はしっかり生きています。
けれども、せっかく完成したプラモデルは、興味のない家族に捨てられたり、ゲームの時間は制限されたり、いつも邪魔者にされています。
邪魔者にされないためには、邪険に扱う人たちの興味の対象を含めればいい。
そうすれば、人口は増える。
 
仕事として考えると、このように考えてしまいますが、まだ観客席にいる自分としては、ただ単純に、邪魔者扱いされているのに、確かにハマっている人口分布があることに感心しています。
 
ぼくはすごいことに気がついてしまった。
おもちゃに触っている人は、おもしろい。
おもちゃについては、もっと話したり、考える必要がありそうです。

ガンプラはじめました。

2019.10.17

はじめに断っておきますが、今日は内容がないようです。
 

急に寒くなってきたと思って天気予報を検索してみたら、今後一週間、曇りや雨のマークが連続していた。
この季節になると、寒さが苦手なことを思い出すが、ネガティブなままでは体調も悪くなるので、どうにかして楽しみを見出す訳だ。
お鍋が美味しいとか、スープが美味しいとか、お風呂が気持ちいいとか、布団にくるまるのが気持ちいいとか、もうね、欲望と自堕落なことばかりを思い続けている。
それでも、「洗濯物が乾かないじゃん」と思ってしまうので、咄嗟に逆転の発想をしてみる。
「乾かないのもアリじゃん」……ないだろ。
こんなことを思う始末である。
 

今月は仕事が落ち着いているので、空いている時間に何かを始めようと思い、22年振りにガンプラを作っています。
知らない人のために説明すると、ガンプラとは、ガンダムというアニメに出てくるロボットのプラモデルです。
このガンプラにもグレードがあって、詳しくないぼくの説明になるので間違っているかもしれませんが、ディティールの細かさや塗装のクオリティなどでグレードが分かれているようです。
そんで、ぼくが買ったのは、無塗装の290円ぐらいで買えるガンプラです。
道具類も家にあるもので代用できないものは買い足したので、結果的に道具の方が高くついています。
 
まぁ、まだ完成していないので、後日報告しますが、先にはじめた理由を言いますと、YouTubeでガンプラ製作の動画を見ていたら、自分も作りたくなったのと、空き時間にやることを社会的に実益のあることじゃないものに使いたくなったんです。
細かい作業の訓練になるので、仕事に関係あると言えば関係あるのですが、これで困っている人が助かるとか、持続可能性の社会が推進されるとか、生産性が高まるとか、そんなことにならないことを始めたかったのです。
そう考えていたら、ガンプラを作っている動画を見て、感化されたという訳です。
 
ま、この1〜2年で話していることでもありますが、直接的にも間接的にもメリットがあると言えないようなことを、みんな、心の奥底で欲しがっているでしょ?
ぼくも、そうなのです。
これについては気が向いたらまた報告しますが、ぼくは色々はじめています。

先に好意を持つ。

2019.10.16

昨日は「自分の名前で仕事をするには、好意を持たれること」というようなことを書きました。
いい大人なら、好意と書いて、恋愛100パーセントと考える人はいないでしょう。
嫌悪感や無関心でない限りは、大抵は好意があります。
「友達にはなりたくないけれど、仕事はできる」というのは、好意はないですね。
やはり、「友達になりたい」や「友達になれそう」と思えなきゃ、その人に好意はないです。
「あの人に協力したい」とか「お節介を働きたい」というのも、好意があるでしょう。
これは老若男女問わず、誰に対しても抱く感情です。
 
当たり前な話をしますが、依頼仕事のうち、ぼくは引き受けるものと断るものがあります。
その基準は完全にぼくの好みです。
ヒアリングの段階で出会う人をムカついたら、その仕事は断ります。
ムカつく、退屈、つまらない、不潔、臭い……もう、完全に断ります。
 
ぼくは飽き性なので、好奇心が旺盛です。
知らない飲食店に入り、味が予想できないメニューを頼むのが、ぼくの癖です。
話を戻すと、ぼくの知らないことを話してくれたら、基本的に、ぼくは興味が湧きます。
けれど、話しているその人のことを「嫌だな」と感じたら、断るようにしています。
理由は、依頼を引き受けたら、最低でも三ヶ月から三年は、その人と会わなきゃいけないんですから、もう耐えられません。
その間、打合せの度に、ニンニク臭い口臭を漂わせられたら、たまったもんじゃない。
長ければ一生の付き合いになるので、さっさと死にたくなるでしょう。
これは口臭だけじゃなく、話し方も同じです。
毎回ムカついていたら、心臓に悪いです。
もしくは、打合せ中に「退屈だ」と思っているところに、隕石が降ってきて死ぬことになっても嫌です。
隕石よりも心臓発作の方が、確率は高いのかもしれません。
ふざけているようですが、急に死ぬというのは誰にでも当てはまることです。
それを、真剣に考えています。
 
だから、依頼を引き受ける基準に、「その人のことを家族と思えるかどうか」という、完全にぼくの主観や好みで選んでいます。
家族が困っていたら助けるでしょう。
相談に乗るでしょう。
お節介を働くでしょう。
 
そうなれるのも、基本的な根底に、相手への好意があるからです。
友人や家族に抱くのと同じ好意を、依頼人にも持つこと。
だから、ぼくの依頼人への関わり方は、ぼくの家族への関わり方と一緒です。
家族に丁寧語で話しているときもあれば、依頼人にタメ口で話しているときもあります。
もう、ごちゃまぜです。
けれど、そうするようにしてからの方が、経済的にも心身的にも快調です。
 
好意的に「〇〇さんに依頼したい」と言われたいのなら、先に依頼人に好意を持つことです。

2種類の慣れる。

2019.10.13

先日、「歳を重ねることは、死に慣れること」と書いたけれど、慣れるにも、「何も感じなくなること」と「そういうものだと認めること」の2種類がある。
死を何も感じなくなることは、どこか避けた方がいい気がしている。
一方で、誰もが死ぬと認めることは大事だと思っている。
認めた後で、だから死なないように医療技術を研究したり、健康寿命を伸ばすようにしたり、心持ちを整える方法を学んだり、人はいろいろな方向へ進む。
医療の専門家以外のほとんどの人は、心持ちをどうするかが、鍵になる。
治療は医者がやるし、健康寿命の付き合いかたもその専門家がいますしね。
彼らと関わりながら、自分の心持ちをどうするか。
それは、周りにいる人の死を経験することで、少しずつ予行練習をすることになる。
または、自分自身が病や怪我をしながら、少しずつ近づいていることを認識していく。
 
幸か不幸か、ぼくは物心つく前に腎臓病になり、子どもの頃はほとんど入院していた。
周りには同じような入院児童がいたのだが、そのときは、自分が普通とは違うことはわからなかった。
小学校に入学してから、自分が他の人と違うということを、親も含め周囲の大人たちから、これでもかと教え込まれた。
お陰様で、人よりもちょっとだけ早く、死について考えることは多くなり、それはつまり、生きることを考えることでもあった。
 
けれど、一番考えるきっかけを与えてくれたのは、高校入学してすぐに届いた、中学時代の友人の訃報だ。
中学まで、大きな病気を抱えているのは、自分一人だった。
だから、突然の知らせに、ぼくは動揺した。
本来なら病気を持っていた自分の方が先に死ぬと、勝手に思い込んでいたぼくは、自分が死ぬことについては考えていたけれど、友人が死ぬことは、まったく考えていなかったのだ。
つくづく、自分勝手な解釈だったと思った。
 
あれから、ことあるごとに、彼のことを考えるようになった。
ありきたりだが、もしも生きていたら、何をしたかったのだろうか。
そうやって思うすべてが、彼はできなくなったのだ。
それが、死ぬということ。
 
周りの人たちが生きている。
死ぬのは本人。
本人以外の他人の中に、彼が存在している。
けれど、この世の中のどこに行くことも、何かを成し遂げることも、何かになることもできない。
ただ、残っている不思議。
そして、残っているものがなくなったら、本当かどうかわからないものとして残るのか、なくなるのか。
親鸞の言葉たちと思っているのは、弟子の言葉でしかないのだから、本当かどうかはわからない。
そういうことになる。
 
そういう意味では、このブログもいつかはなくなるんだ。