Archive for the ‘ビジネスの健康’ Category

体で覚える。

2019.5.30

先週から通っている鍼治療。
四十歳手前の男が「痛い」と言うのもどうかと思うので、鍼を刺される痛みに耐えていた。
「余裕だぜ」と平静を装っているが、痛みで体は反射的にビクンっ!と動く(ジャンプ反応と言うらしい)。
だから、えせ我慢なのはバレている。
 
初めてのトリガーポイントへの鍼治療だった前回と異なって、今回は「痛み」を知っている。
鍼灸師さんが自分の体に触れ、鍼を打つ雰囲気が伝わると、体の方が「あぁ、来るぞ」と身構えてしまう。
自分にはそのつもりがなくても、鍼を打たれる痛みを体が覚えてしまって、勝手に強張ってしまうのだ。
 
ぼくらの仕事でも「体で覚える」とはよく言うが、リスクヘッジができるのも、危険を体が察知するからだ。
この精度が高まると、「きな臭い」ということが分かるようになる。
相手のしゃべることが「ちょっと出来すぎているな」とか、「そんなウマイ話があるはずもなかろう」と感じることだ。
焦ってしまったりして、この精度が下がると、詐欺に引っかかったりするのだろう。
 
こういった仕事で役立つ「体で覚えた危険を察知する能力」が、今回は反対の意味で作用している。
「うわー、痛いのが来ますよー」みたいにビビっているわけだ。
それでも「痛い」とは言わないで通したのに、治療後のテニスボールを使ったマッサージで思わず「痛い!」と叫ぶ。
痛さのあまり「ヒィタイィ!」だったと思う。
もう、これまでの我慢が台無し。
「歯抜けのヒィタイィデザイナー」、クールさからはほど遠いとつくづく思う。

問題があったら。

2019.5.27

昨日の投稿で、「信じるよ」と言うことについて書きましたが、この背景にあるのは「問題があったら、それも受け入れる」ことだと思いました。
ほんの数年前までは、ぼくもこれを含めて依頼をしていなかっです。
だから、「思っていたのと違うなー」ということが起きたら、そのことについて追及していたはずです。
そうなった理由を知ろうと質問しているようでも、「ちげーじゃん」の方が強いような。
 
今でも「ちげーじゃん」ということはあります。
けれど、それで本当に問題にならないのであれば、思っていたのと違うことを受け入れることの方が、大事な気がしています。
思っていた通りでしか事が運ばないなんてつまらないだろうし、世の中、そうじゃないことの方が多いってことが分かったんだと思います。
それよりかは、「思っていたのと違うけど、これもありだな」というときは、素直に上がってきたものを受け入れちゃった方が、セレンディピティになるのかもしれません。
偶然、幸運を楽しめ。

任せるよ、信じるよ。

2019.5.26

人に「信じるよ」と言うときがあります。
これを言う一瞬間前、言われる人の表情に「この人(江口)、何でこんなに、自分が言うことを真に受けるんだろう」という、ささいな困惑を読み取ります。
この困惑の表情の前には、ちゃんと彼や彼女は、ぼくに説明をしてくれるし、素人の質問にも答えてくれています。
だから、何かを進めるときに、提案するもので進めていいかの確認をとってくれるのですが、そういうときのぼくは大抵、「任せるよ」と言います。
 
ただ、一度ならまだしも、「OK、任せるよ」という返事が多くて、困惑の表情になっているようです。
ま、こっちは理解して、納得した上で返事をしているから、ミスがあったとしても受け入れますが、世の中はそうじゃなくて、自分の思った通りにことが進まないと文句を言う方が多いのでしょう。
文句を言う人が多い中、「任せるよ」と返事を繰り返す相手と遭遇すると、ちょっとびっくりするんだと思います。
 
これに気づくようになってから、「大丈夫、あなたの言っていることは納得しているし、ぼくは素人だから、あなたの言っていることを信じるよ」と言うようにしています。
そうすると、ハッと気づいたように、背筋をしゃんと伸ばす雰囲気に変わるんですよね。
おそらく、ここで背筋を伸ばせない相手には、ぼくも言わないんでしょうねー。
 
話を聞いて、相手を信じること、そして、悪意に翻弄されないこと。
三十代も後半になって、この精度がようやく高まってきた感じがしています。
二十歳の頃から作品を売ることをしていて、十七年は費やしている訳です。
子どものように無力になって、相手に委ねること。
これを今の年齢までに身につけられて良かったと思っています。
ま、この先の次元もあるような気がしています。
それは、これを繰り返すことで気づく次元なんだろうなぁと思っています。
セルフマネジメントはおもしろい。

代償。

2019.5.25

今週は、体に鍼(はり)を刺して、抜歯もしたから、疲労困憊になっています。
仕事の方は忙しさは抜けたから、完全に体の傷による疲労です。
 
鍼灸師の女性が「鍼を刺すのは、体に傷をつけるのと同じ。指先の切り傷と同じように、治癒までに1週間はかかると見ておいてください」と言っていたっけ。
鍼を刺した瞬間も痛いし、一週間くらいは治療による痛みもあります。
これを繰り返して、体にあるトリガーポイントと呼ばれる固まったコリを徐々に破壊して、体を再生させるらしいです。
 
同じように(?)、歯列矯正も痛みを伴って、徐々に歯が動いていきます。
だからこの痛みで痛み止めの薬を飲むと、歯の動きが止まってしまうようです。
別の痛みのときには薬を飲んでもいいけれど、矯正治療の痛みでは薬を飲むことを止められています。
ま、今回は抜歯だから飲んじゃいますけどね。
 
こういうことを経験しながら思うのは「ぼくらの仕事と同じだよなぁ」ということです。
依頼人に言われたことをそのまま形にするっていうよりかは、依頼人の抱える問題をよりよく解決するために、ぼくらはいます。
けれど、デザインを進める上で、依頼人が痛みを感じないことってないんですよね。
「ふんふんふーん」なんて鼻歌うたってたら、依頼していた問題が、都合よく解決されているなんてことはないんです。
ま、そういう場合もあるかもしれませんが、報酬をたんまり弾むとかしないと、デザイナーもキレちゃうでしょう。
 
何かを得るには、代償を支払うっていうことですよね。
ほんと、勉強になります。

ターゲットを設定しない代わりに。

2019.5.24

事業の相談を受けていて、いまだに根強く残っているのが「ターゲットはどこか」という話。
結論から言うと、ターゲットなど設定する方が無駄だ。
架空のターゲットを決めることで、事業者のやりたかった事業はきらめきを失い、理屈で作られた、現実に存在しないターゲットは攻略不可能な強大なラスボスになる。
しかも、時間を追うごとに、この架空のラスボスは姿形を変え、最初に設定したターゲットを攻略できるようになった頃には、本当にどこにもいない人になっている。
ターゲットに翻弄された事業者たちに残るのは、虚無感だけになる。
 
けれど、「ターゲットを設定しないこと」と「人間が何にお金を払うか考えないこと」は同一ではない。
むしろ、前者をしない代わりに、後者である「人間がお金を払うもの」を考えるのはとても大切だ。
 
たとえば、「お金持ちの人」と「お金持ちでない人」のお金の使い方の違い。
モノを得る際に、自分でモノを作る体験にお金を払うのは、「お金持ちでない人」だ。
逆に、お金持ちの人は、素材を加工したモノを提供してくれることを含めた体験にお金を払う。
これは、お金を払うことに対する発想の違いだ。
「そもそも、発想されることが違う」と言った方が適切だろう。
 
たとえば、飲食で言えば、農業体験をして野菜を得ようと思うのはお金持ちの発想にはなく、素晴らしい素材(野菜)を加工(調理)した料理を含めた心地いい体験を提供してくれるお店やスタッフにお金を払う。
だから、農業体験の良さを、お金持ちの人にどれだけ伝えても、知識や情報として伝わるだけで、「そうしよう」という発想になりにくい。
なぜなら、提供してもらうことの良さを知っているから。
そして、料金の高い、安いで価値判断をしていないからだ。
 
ここで事業者が間違うのは、素材を良くしたらお金持ちが来ると思うことだ。
残念ながら、その発想にはホスピタリティが足りない。
事業者ができることを頑張るのではなく、お客さんが心地いいと感じるように頑張ること。
「精一杯頑張っている」のが自分の都合なのか、相手のためなのかが、まったく違うんだ。
 
人間を知ること。
これはどんな事業でも、人にお金を払ってもらうなら考えた方がいいと思う。