Archive for the ‘ビジネスの健康’ Category

いのちをかけた時間。

2019.6.14

つくることについて考えていると、いのちをかけた時間を入れたいんじゃないだろうか、という気がしている。
写真で「凝縮されたものを閉じ込めました」と言っても、制作時間は短い。
海外や山の中に行けば、移動時間も含まれるかもしれないが、今や飛行機や車でビューンと行く時代だ。
そこでシャッターを切って、現像をして、プリントをしても、一枚にかけた手汗のついた時間は短い。
だから、写真集や組写真という分野が発達したとも言えるけれど、「一枚で勝負」というのは難しい分野だ。
ぼくが、写真の上からペイントをするようになったり、色々な工程を踏んで一枚を作るようになったのは、いつも「一枚で勝負したい」という気持ちがあったからかもしれない。
だから、いい一枚ができたとき、寿命を対価として支払ったような気分になるのかもしれない。
長いこと続いているアンティークブームや手仕事ブームも、同じように「いのちの時間」を、人は求めているということじゃないのかな。

一度きりかどうか。

2019.6.13

人と関係を切るということには、ゲージのようなものがあるような気がしている。
「関係ゲージ」というのがあって、これが満タンになると、人はその相手と関係を切ろうとする。
人はというか、ぼくはそんな感じがしている。
関係を切らないまでも、『GIVE & TAKE』に書かれていたような「寛大なしっぺ返し」と呼ばれる、マッチャーの振る舞いをしているような気がしている(本を読まないと、なんのこっちゃーですね)。
 
特にこういうことが起きやすいのは、仕事関係ではないだろうか。
ぼくの話が続いて恐縮だが、ぼくの目安はお節介を焼く回数が減り、最終的には何も言わなくなる、というのを意識的にやっている。
お節介というのは専門家としての視点のときもあるし、経験からの老婆心から何かを言うときもある。
けれど、このときも言うのは一度きりだ。
お節介の良いところは、何度も言う必要がないところであり、一度で相手が聞き入れない場合は、「オーケー、そういう人ね」とこちらも判断できる。
 
思えば、年上の方からたくさんのことを教わることができたのは、ぼくが聞く耳を持っていたからだろう。
一度聞き入れて試してみた結果、「あれ、やってみたんですが、なんかうまくいかなかったんすー」と言えば、次の話のネタにすることができる。
もしかしたら、話は正しかったけれど、自分のやり方が間違っていたのかもしれない。
すると、次から次へと教えてもらえる。
けれど、お節介に対してはじめから「いや、私はこうなんです」と対抗してしまえば、相手からしたら「馬鹿だなー」と思われるだけだろう。
昨日の投稿とも似てきたが、結局は「馬鹿だなー」と思われる回数が、関係ゲージを満タンに近づけるのだろう。

強い立場ほど丁寧に。

2019.6.12

いい年の取り方を考えていると、「こうありたい姿」を思い浮かべるといいと思った。
僕で言えば「知らないことへのアレルギーが低い人」と「尋ね方が上手い人」に憧れる。
 
知らないことにアレルギーが強いと知ろうとしなくなる。
そうなると好奇心がなくなり、物事をフラットに観察できなくなるし、そもそも生きることが退屈になるような気がしてならない。
あくまでも僕の場合だが、義務で仕事をするのも嫌だし、ましてや生きることを義務的になるのは最悪だ。
だから、好奇心をなくさないためにも、自分が知らないことへのアレルギーは低い方がいいだろう。
 
だが、たとえ知ろうとしても、尋ね方が下手だと、教える方も教えたくなくなるものだ。
年を取れば取るほど、教わる相手は自分よりも若い人になる。
年上ってだけで、相手はつまらなく思うものだ。
上司や両親であっても面倒くさいと思うのが日本人らしさではないだろうか。
それが他人になれば、さらに「どうでもいい」存在になっているわけだ。
そんな、ただでさえどうでもいい面倒くさい相手になっている自分が相手に教えてもらうとき、言葉遣いや返信速度を気にしなきゃいけないのは自分の方だと思っている。
 
具体的には「教えてください」ではなく、「教えていただけないでしょうか」というお願いになる。
こういう言葉遣いは、上司になってしまっているときでなく、お客になるときも同じように、自分が上の立場になる際に気をつけるようにしている。
返信しない馬鹿、謝れない馬鹿、感謝の伝え方を知らない馬鹿と思われるのは、弱い立場の人たちからそう思われるものだ。
よっぽど、その人と縁を切りたいと思っていない限りは、自分の立場が強いときほど、丁寧に接した方がいい。
これは、常に気をつけていることでもある。

『問題解決ラボ』を読んで。

2019.6.11

佐藤オオキさんの『問題解決ラボ』を読んでいると、自分と似ている考え方とたびたび出会う。
その中でも上手いこと言うなあと感心したもののひとつは、マーケティングとデザインの違いについて触れているところ。
医師の診察に例えていて、マーケティングを処方箋や治療などの処置診療、デザインはこれから問題が起きないようにする予防診療と喩えていた。
これは抜群の喩えで、マーケティングは過去の事例やユーザーが行った行動から今ある問題を解決する方法だ。
だから、問題に気づいているときのテコ入れに役立つ。
一方でデザインは、人間とはなんぞやという普遍的な性質を見ながら、未来へユーザーを導く役割りがある。
だから、デザインの方が仮説性が高いように見えてしまう。
けれど、これはどちらが優れてるというのではないし、どっちがどうって、否定し合う必要はないんだよなあ。
貢献度競争はしたくないんだよね。

この仕事の難しい部分。

2019.6.10

こういう仕事をしていて難しいと思うのは、いかにクリエイティブな部分が事業に必要だと世の中で言われていても、事業者が腹の底からそう思わなければ、ぼくらにおんぶに抱っこになってしまう。
それでは、ぼくらが関わった一瞬はよくなっても続かない。
だから、クライアントの努力も必要不可欠なのだ。
しかし、腹の底から大事だと思わないまま努力をしたら「よくなったのはクライアントの努力が100%」という結論になる。
どちらにせよ、ぼくらはそこで離れる。
離れると、クライアント側は依頼前の状態に戻る。
そういうクライアントの場合、結局はこの繰り返しが起きているようだ。
たとえば、クリエイティブが必要だと事業者が思っていない典型は、HPの更新をクライアント側で行うというものだ。
どんな些細なほころびでも、積み重なれば大きな穴となる。
それが、ぼくらに依頼をする前の状態だというのに、懲りずにまたその状態に戻ろうとする。
これは浪費癖や酒癖の悪さなどの悪しき習慣が抜けきらないのと同じで、本当に痛い目に合わなければ治らない。
いや、死ぬまで治らないのかもしれないと、最近では思うようになってきた。
こういうクライアントと出会ったら、ぼくらにできるのは、早々に切り上げ、切り替えることだ。
彼らには彼らの思惑と欲望があるのだから。