Archive for the ‘ビジネスの健康’ Category

Red Dot Award 2019 受賞。

2019.8.19

江口が関わらせていただいている「里山まるごとホテル」が、国際的なデザイン賞「Red Dot Award 2019」の「Brands & Communication Design」部門で受賞しました。
 
日本語的に言うと、「ブランディングとコミュニケーションデザインで世界的に認められた」ということです。
自信はあったけれど、人のためにアワードに参加するのは初めてだったので、受賞の知らせを受けたとき、思わず「あ〜、よかった」と言っちゃいました。
 
インバウンド収益は観光業における輸出収益になる。
労働人口が減り、生産性を向上させなければならない日本の収益源は輸出が鍵になる。
里山まるごとホテルが、そのひとつになれば幸いです。
(語尾が揃っていないのはわざとだよ)
 
友人も知人も少ない江口が、彼らの利益向上に貢献できることといえば、世界のスケール感を体験してもらうことと、受賞によって全世界に告知してもらうことぐらい。
ブランディングとコミュニケーションデザインで利益向上が図れる時代、デザインを理解していれば、自ずとブランディングとコミュニケーションデザインは達成できる。
人類を理解すれば、デザインは達成できる。
つまり、利益向上に役立つことができる。
こういうことを理解して形にできる事務所が、もっと増えて欲しい。
 
もうひとつの理由は、別のところで育てている若者のキャリア相談を受けたとき、獲りたいアワードの名前で、いの一番に挙がっていたこと。
江口が受賞したら、受賞までのステップを彼に伝えられるだろうと思って。
 
三つ目の理由は、ぼくのような仕事人間を、現代では寒い奴となること。
過去には、そういう人がかっこいいとされてきたから、現代でどう思われるか、というのはどうでもいいです。
けれど、どんな人がクリエイターに向いているか、というのは全く別の話。
たったひとりでも、コツコツ、想像力と技術力を高める人、妥協が嫌いという人さえも妥協していると感じてしまう人、そんな人がクリエイターに向いている。
つくづく、自分の仕事が、現代では犯罪でなくてよかったと思う。
犯罪になる時代や、犯罪とは言わないまでも賎しい仕事として思われていた時代もあったのだから、これを改善してきた先達には感謝しきれない。
 
藝大も美大も出ていない、ぼっち力全開事務所の江口が受賞できたのは、お亡くなりになっている人も生きている人もごちゃまぜになって、たくさんの人が彼を育ててくれたからだ。
同じような人達の励みに、ちょっとはなれただろうか。
 
ちなみに、写真でも世界行ってますからね、えぐっちゃん。
二足のわらじ? 必要とあらば何足でも履きます。
だって、毎日仕事しているんだから。
 
と、言いながら、ベルリンに友達いないし、英語もできない。
車の運転もできないし、腰痛持ちで座ってられない……俺よ、ポンコツすぎるぞ。
とりあえず、英語を教えてくれる人を探そうかな。
 

慰めの言葉。

2019.8.18

上手い言葉が見つからないが、受け手と送り手で「言っていい言葉」は変わる。
例えば、何かを渡すときに約束の日から遅れてしまった場合、どんな理由があっても「仕方がないっすね」と慰めの言葉を言えるのは、受け手側だ。
これを送り手側が「仕方がなかった」と言えば、開き直りと捉えられても仕方がないだろう。
一方で、送ったものを無駄にしてしまった場合、「仕方がないっすね」と言えるのは、送り手側だ。
これもまた、無駄にしてしまった受け手側が「仕方がなかった」と言えば、開き直りになるだろう。
 
世の中は、同じ言葉でも「言っていい言葉」かどうかは、その状況で変わる。
特に「仕方がなかった」という言葉は、物分かりの良さが醸し出される分、言っている方は気持ちがいいし、逆にそのような状況で相手に詰め寄れば、利己的な愚者に映り、その場は良くても関係性は終わるだろう。
だから、「仕方がなかったね」と言われる方は、この言葉に慣れてはいけない。
「仕方がなかったね」と言っている裏には、「次は同じことはやらないでね」という意味が込められている。
これを読み取らずに、二度三度と同じことを繰り返すと、これもまた関係性を壊すことになる。
関係性を壊す立場が変わるだけで、やはり、「仕方がなかった」ということを、どうやって減らしていくかが、経験値を積むということなのだろう。
 
慰めの言葉をかけられたとき、安堵するのか、悔しい気持ちになるのか、それはもうその人次第なんだけどね。

潜在的な課題原因を聞き出す。

2019.8.17

専門家との関わり方がわからない場合、医者と患者の関係だと思えばいい。
治療でも予防診療でも、医師の診察に対して「あーだこーだ」言えば、医師から「他所に行って」と言われるのがオチだ。
診察代を払ってから、他所に行くだけだ。
治療を受けなくても、診察を受けたら診察のための料金を支払い、他所に行くだけだ(わざわざ書いているのは、医師と患者の関係に喩えているため)。
 
職業倫理というのは、ヒポクラテスの誓いがはじまりとも言われ、専門家と依頼人には知見に大きな隔たりがあることが、職業倫理を働かせる理由となる。
だから、専門家は依頼人にとって不利益になることはしないし、依頼人にとって利益になることしかしないという職業倫理を働かせている。
そのため、患者が文句を言う前に、医師の診察は患者の利益になるものだけだ。
それにも関わらず文句を言えば、「他所に行って」と医師から言われても仕方がないことだろう。

これは医師だけでなく、デザインでも同じだ。
依頼人が「あーだこーだ」言えば、クオリティは下がるものであり、あまりに酷ければ「他所に行って」となる。
これはデザインだけでなく、なんでもそうだ。
飲食店でも、建築事務所でも、クリーニング屋でもなんでも同じだろう。
 
依頼人の欲望を叶えることが仕事なのではなく、依頼人の課題を治療し、予防診療をし、より良い将来をつくることが我々の仕事なのだ。
これを「依頼人の欲望を叶えること」だと勘違いしている人が多い。
お客様は神様ではなく、課題を抱えた患者だ。
 
これを間違えて事業を行うと、価格競争の戦略をとりやすい。
価格競争を「戦略」なんて言っていいのかは疑問だが、本を読んでいて価格競争によって利益を得ることを、「Last man Standing利益」と呼ばれるのを知った。
なるほど、上手い言い方だ。
こういう競争はジリ貧の争いになり、勝者になっても、安い価格に慣れてしまったユーザーを相手にしている以上、値上げができなくなる。
残った勝者が値上げをすれば、それより安い挑戦者が登場する。
そして、勝者は他の戦略をする体力もなければ、クリエイティビティもない。
つまり、勝者になっても、いつかは負けるのだ。
これが現状の日本および、日本企業の姿だ。
 
依頼人が抱えている課題に対して治療をしたり、同じような課題が起きないように予防診療を提案するのは、専門家だからできること。
依頼人と議論をしても無駄なのは、依頼人と専門家の間の能力差に、大きな隔たりがあるからだ。
そのため大事なのは議論ではなく、聞き出すこと。
潜在的な課題原因を聞き出すための話し合いが、依頼人と専門家の間に必要なことだ。

7割の失敗。

2019.8.16

クライアントと事務所の普遍的なギャップに気づいた。
ぼくらは「打率」を上げようとするけれど、クライアントは「10割安打、あわよくばホームラン」を狙っている。
どんなに思慮深いクライアントでも、根っこのところでは「10割」を狙っている。
7割の失敗は成功ということに、気づいていないことは多い。
「ビジネスと野球の打率は違う」と言うのは、実は墓穴を掘っていて、ピッチャーの投げる範囲とバッターの選択の範囲の差と、ビジネスの顧客の範囲と顧客に売る商品やサービスの範囲の差で言えば、ビジネスの範囲の差の方が大きい。
大雑把な見方になってしまうが、ビジネスの範囲の方が打率は下がるので、7割の失敗どころではなくなる。
ちょっと身内贔屓になっているが、もちろん、事務所の人間でも「打率」の考え方をしたことがない人は多い。
そういう事務所は無理が多い。
薄利多売で引き受ける事務所はまさにそれだし、設備投資をしない事務所も打率を上げようと考えていない。
送りバントでチャンスを広げたり、犠牲フライで点数を稼ぐことだってできる。
これは経営でも同じだ。
ペナントレースを最終的に首位で通過することも、日本シリーズで優勝することを狙って、年間の勝率を考えて戦略を組んだり、チームを強化するのに、どれくらいの年数が必要なのか、助っ人が必要なのか考えているだろう。
これらは全部、「打率」を上げることと言える。
「どんなに投資をしてうまくいったとしても、7割は失敗する」ということをわかるのは、とても強い。
ビジネスの才覚があると世間から言われている人たちは、言葉を変えながら「打率」について話している。
「失敗を恐るな」も、こういうことを言いたいのかもしれない。

「選ぶ力」と「決定権」。

2019.8.10

「選ぶ力がある」のと「決定権を持っている」はまったく違うことなのだが、これを混同している人は多いだろう。
いや、考えたこともない人が多い気がしている。
 
子どもに食べたいものを選ばせるとき、決定権を与えているが、選ぶ力はない。
だから、子どもは自分が食べられない量のメニューや、食べられないほど辛いものを注文したりする。
おかわりでいいところを、大盛りを注文して残したりする。
そして、親から怒られて学習する。
 
実は、仕事でもそうなのだ。
お金を払う人は、決定権を持っているが、選ぶ力があるかどうかは分からないものだ。
むしろ、依頼する内容が専門的な知識や能力を必要とするのなら、依頼者に選ぶ力は備わっていないと言える。
「職業倫理」という言葉のはじまりは、これを前提にして生まれている(自己契約になって無効になるから、とか)。
だが、これを自分ごととして受け止めている依頼者は、かなり稀であり、大抵は考えたことすらないので、選ぶ力が決定権であると思い込んでいる。
そうやって決定をし続けても、選ぶ力は育たない。
なぜなら、子どもを叱る親の役割を、誰からもしてもらっていないからだ。
 
今もあるかもしれないが、昔は若手が好き勝手に企画を進めて、どうしようもない内容だと判明したとき、上司に当たる人は、皆の前でも叱責したものだった。
そういう現場を、ぼくは何度か見ている。
学校で、生徒が教師から怒られているようなものだ。
 
最近では、パワハラなんて言葉が広まったせいで、どうしようもないまま年齢だけ重ねる人も増えてきている。
そういう人は、決定権を持っているけれど、選ぶ力がないのに選ぶ力があると思っている人になるので、かなりタチが悪い。
叱り方が上手い人も増えてきているかもしれないが、その人が、どうしようもない人を育てる理由はどこにもないのだ。
仕事なのだから、より利益を向上できる若者を雇いたいものであり、どうしようもない人は仕事が回ってこなくなるだけだ。
 
叱るのはとても疲れることで、誰だってやりたくないことだ。
それでも叱るのは、その人の成長を望むからでもあるんだよな。
中には叱りたいから叱っている人もいるし、そうじゃなくても言い過ぎる場合だってあるだろう。
けれども、成長を望んでいることが根底にあるのなら、言い過ぎた場合は謝るもんだ。
だから、基本的には、叱り上手を求めるよりも、叱られ上手になった方がいい。
子どものうちに、これに気づけると、とてもラッキーだと思うよ。