「選ぶ力」と「決定権」。

2019.8.10ビジネスの健康, 日々のこと

「選ぶ力がある」のと「決定権を持っている」はまったく違うことなのだが、これを混同している人は多いだろう。
いや、考えたこともない人が多い気がしている。
 
子どもに食べたいものを選ばせるとき、決定権を与えているが、選ぶ力はない。
だから、子どもは自分が食べられない量のメニューや、食べられないほど辛いものを注文したりする。
おかわりでいいところを、大盛りを注文して残したりする。
そして、親から怒られて学習する。
 
実は、仕事でもそうなのだ。
お金を払う人は、決定権を持っているが、選ぶ力があるかどうかは分からないものだ。
むしろ、依頼する内容が専門的な知識や能力を必要とするのなら、依頼者に選ぶ力は備わっていないと言える。
「職業倫理」という言葉のはじまりは、これを前提にして生まれている(自己契約になって無効になるから、とか)。
だが、これを自分ごととして受け止めている依頼者は、かなり稀であり、大抵は考えたことすらないので、選ぶ力が決定権であると思い込んでいる。
そうやって決定をし続けても、選ぶ力は育たない。
なぜなら、子どもを叱る親の役割を、誰からもしてもらっていないからだ。
 
今もあるかもしれないが、昔は若手が好き勝手に企画を進めて、どうしようもない内容だと判明したとき、上司に当たる人は、皆の前でも叱責したものだった。
そういう現場を、ぼくは何度か見ている。
学校で、生徒が教師から怒られているようなものだ。
 
最近では、パワハラなんて言葉が広まったせいで、どうしようもないまま年齢だけ重ねる人も増えてきている。
そういう人は、決定権を持っているけれど、選ぶ力がないのに選ぶ力があると思っている人になるので、かなりタチが悪い。
叱り方が上手い人も増えてきているかもしれないが、その人が、どうしようもない人を育てる理由はどこにもないのだ。
仕事なのだから、より利益を向上できる若者を雇いたいものであり、どうしようもない人は仕事が回ってこなくなるだけだ。
 
叱るのはとても疲れることで、誰だってやりたくないことだ。
それでも叱るのは、その人の成長を望むからでもあるんだよな。
中には叱りたいから叱っている人もいるし、そうじゃなくても言い過ぎる場合だってあるだろう。
けれども、成長を望んでいることが根底にあるのなら、言い過ぎた場合は謝るもんだ。
だから、基本的には、叱り上手を求めるよりも、叱られ上手になった方がいい。
子どものうちに、これに気づけると、とてもラッキーだと思うよ。

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