上手いの反対が当たり前にあることで。

2019.8.11心の健康, 日々のこと

土曜日は花火を見に行きました。
先日、手土産に水羊羹を持って行きました。
それぞれで話された言葉--「夏らしい」。
 
夏に限らず、ぼくらは季節の風物詩を喜ぶ。
他の国の人たちは知らないが、同じなんじゃないだろうかと思っている。
 
夏であれば、涼を感じるもの。
冬であれば、暖を感じるもの。
秋であれば、満ちるもの。
春であれば、華やなもの。
 
もちろん、他にもたくさんあるけれど、共通しているのは、相反するものが季節を通してあることだ。
夏であれば、暑いことが夏だ。
だから、今年のような梅雨寒が続けば、どんなに暑かろうが、「待ってました」と言い合う。
この暑さが当たり前になる頃から、反対の涼しいものを欲しくなる。
そうやって、ぼくらは季節を感じることが上手になる。
 
そう、季節を感じることがなければ、夏に涼を感じるものは欲しくないのだ。
もしも、季節として当たり前な要素がなくなれば、ぼくらは季節を上手に感じることはない。
下手になっていき、感じなくなる。
はじめから季節がなければ、下手にもならない。
 
全部の物事って、実はこういうことだ。
工夫が上手い人、回転が早い人、料理が上手い人、多種多様な「上手い」はその前に反対の要素が当たり前にあったからなんだ。

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