Archive for the ‘ビジネスの健康’ Category

Red Dot Awardの振り返り。

2019.11.10

そろそろRedについて振り返ってみよう。
他の受賞作で、「すげぇな」と思ったものの傾向は、アイデアがあること。
いや、アイデアで押し切っている、と言えるかもしれない。
 
例えば、卵の包装パックを再利用したクッション材。
再生紙っぽい紙で作られた卵のパックで、割れ物に巻きつけて、本来なら卵が収まる凹凸を利用して止める。
ただこれだけだ。
「巻きついていない箇所をぶつけたら割れるよな」と思いつつ、紹介ムービーを見ていると、やはりそんなシーンは登場させていなかった。
けれど、これを商品化する押し切り力というか、寄り切り力はすさまじく、アイデアを製品化する軽妙さに感心した。
これにGOを出せる社長って、どんなだよ。
日本の繊細な消費者とビジネスマンを相手にしたら、こんなのは商品にならないだろう。
十中八九、プレゼンの場で馬鹿にされる。
ぼく自身も、製品化の段階で、もうちょっとなんとかならないかと手を掛けてしまう気がしている。
しかし、手を掛ければ掛けるほど、軽妙さはなくなり、安心感という重さが生まれてしまう。
 
他に強い興味を持ったのは、「色盲テストで見かける模様を使って、色覚異常の見え方を、街行く人々に体験させるイベント」だ。
全部の英語が聞き取れていなかったので、間違っているかもしれないが、その模様は色盲テストの模様を模しているだけで、実は全くの別物であり、これを白いトラクターに投影して、色覚異常の見え方を擬似体験させている。
模様を似せているだけなので、健常者であっても、模様が何を表しているのかは「分からない」。
けれど、この「分からない」ことを経験させることで、色盲の人が普段経験している「分からない」を経験さえているのだ。
これを日本でやったら、炎上するだろう。
それぐらい、乱暴な側面もある。
だが、突如として「分からない」を擬似体験させることで、その切迫さは、より強靭なものになる。
 
他にもこういう作品はいくつかあり、いま自分の中で強く残っているのは、こういったアイデア先行型の商品やサービスだ。
 
こういう話になると、アイデア先行型か安定型のどちらが優れているか、という議論になるが、結局は使い分けだ。
軽妙さとおちつき。
だが、「いつ」「どこで」発表するかも大事なんだ。
先に挙げた二つは、日本ではリコール対象や炎上しやすい。
両方使いこなせる人でありたいと思うが、話したところで話にならない可能性もある。
昨日の通貨の話でさえ、基本的にぼくの話は日本の人々から「無理だよ」と笑われることが多い。
だが、昨日の話もそうだったように、自分一人でも考えていれば、いつかはどこかで実現される日がくるだろう。
ぼくじゃなくても、そのアイデアを見れるときが面白いんだ。

既に行われていた。

2019.11.9

ドイツ出張で悔しかったこと。
自国の通貨を他国で使えるソリューションについて話すと、日本では「無理だよ」と笑われたが、ワルシャワ空港の一部のお店ではユーロが使えた。
ワルシャワ空港のあるポーランドの通貨はズウォティ(ズロチとも言うらしい)。
ポーランドではユーロは導入されていない。
だから、値札の表記にもユーロはなく、現地通貨で表記されるだけだ。
物は試しで、「ユーロ、OK?」と店員に尋ねると、「Sure.」と答え、どうなるのだろうかと思っていたら、店員が金額を言いながら、レジのモニターをこちらに向け、下の方を指差した。
そこには申し訳なさそうに、小さくユーロでの価格が記載されていた。
他の店舗で同様の質問をしたら、「No.」とキッパリと言われたから、使えるお店と使えないお店があるようだ。
 
お金の流通の仕方や形というのは、時代によって変わっていく。
そこには、利便性と欲望と安心感が、それぞれ関係している。
安心感というのは、欲望でもある所有欲も混じっているが、この場合は、触覚による安心感だ。
 
旅に出ると、カードの使えない場所というのは山ほどある。
現地の暮らしぶりを感じようと街に出れば、カードですべて済ませられる方が珍しい。
カード決済を導入していない人たちの心情は、「必要がない」からだ。
その人たちに必要性をどれだけ説いたとしてもまったく意味がないし、専用機器を用意したところでも同じ結果だろう。
キャッシュレス推進派が間違うのはここだ。
 
つまり、旅に出ると、必ず両替を行うことになる。
両替は手数料などのコストが発生するが、一番のコストは「心配」だ。
損をしているのではないか、両替所はどこにあるのか、心配はつきない。
正直言って、現地通貨にしたところで、旅人の頭では正確な金額をはじきだすことは難しい。
だから、損の心配をしたところで無駄骨になることは多く、むしろ、帰国して余らせた硬貨を換金する方が、手間というコストは大きい。
それでも、現地通貨を持っているときに感じる面倒臭さはなんだろうか。
その正体は「計算」だ。
損をしていようと、していなくても、分からないというのに、人は損を嫌うため計算する。
さらに、慣れていない単位での計算により、脳味噌を普段よりも疲弊させる。
この二つが、旅する人間にとっての大きなコストとなる。
 
これをクリアーにできるのが、冒頭に言った「自国の通貨を他国でも使える」ようにすることだ。
実際に、ワルシャワ空港でユーロが使えてありがたかった。
おそらくだが、そこには手数料が含まれていたかもしれない。
だが、両替をしようが、帰国後に換金をしようが、手数料は取られるものだ。
そんな大なり小なりの手数料の心配よりも、トランジットのための滞在で、必要最低限の買い物をするのに、わざわざ両替をするはずもなく、余った外貨を減らしたい気持ちが勝る。
そんなときに、自国外の通貨が使えたのは、渡りに船だった。
 
こういうときにカード決済を勧めるのは、問題の本質を間違えている者だ。
日本で笑われたことよりも、海外で既にあったことの方が悔しいものだな。

合理的な情報量と性善説。

2019.11.8

ベルリン滞在の感想を一言で表すと「とても合理的」になるだろう。
過ごしていて常に感じていたのが、「とても合理的」ということ。
情報が少なく、最初は右も左もわからない状態からはじまる。
お客がお店のサービスについてわかっていなければ、「なに?そんなこともわからないの?」という態度をされる。
けれど、一度経験すれば、この情報量で十分だということがよくわかる。
最小限の情報で予測できないのは、教養のない馬鹿なのだろう。
これはぼくがアジア人だからということよりも、街全体から感じたことだ。
だから、追いつこうと無理をしている雰囲気はなく、誰もが教養を持っている感覚がある。
それは情報量だけでなく、仕事中の集中力からも見て取れる。
みんな、集中力が高い状態で仕事をしている。
けれど、休んでいるときの街中の雰囲気は、まったくもって、休んでいる感じだ。
だから、レバレッジ(テコの原理)の掛け方が極めてうまいんだろう。
それは、土曜日の夜に聴いたベルリン大聖堂での合唱(コンサート?)でも感じた。
 
こうやって書いていると、冷たい国と予測されそうだが、ドイツの人達はとても暖かい人たちだった。
交通券や割引券は人数分見せなくても「信じてくれる」し(もちろん、全員持っていた)、歌詞カードがドイツ語で理解できないでいると、隣にいた人が英語で教えてくれたり、交通機関でも老人たちに席を譲っていた。
つまり、倫理観や道徳観と、合理的な考え方が浸透しているようだった。
こういうのを性善説というのだろう。
ホテルのサービスも最高で、よく気にかけてくれる。
その分、こちらが二束三文の小銭を払おうとすると、「いや、ウチの店、そうゆうんじゃないんで」という感じで断られる。
だから、ホテルの費用は高いが、接客は全員、気持ちがいい。
 
話を「情報量」に戻そう。
「日本は情報が多すぎる」と言うと、「そうそう」と共感されるが、その人をクライアントにして起きるのは「情報を減らす作業」という皮肉に満ちた現実だ。
クライアントになった途端に、「あれもいれたい病」が発症する。
「そうじゃないとクレームになるじゃん病」も同時に発症する。
昨今は「ユーザーのため病」とも言える。
最も目もあてられないのが「SDGs病」や「持続可能性社会病」。
先に言ったように、倫理観・道徳観・合理的な考え方が浸透していたら、三方よしは当たり前なのだから、わざわざビジネスの場で言わなくてもいい。
それを言うのは「格好つけたい病」と「稼ぎたい病」と「投機病」もしくは「平等に弱者になる病」を発症しているから。
これは生活者を相手にしても、事業者を相手にしても同じ。
いちいち付き合っていると、「みんな暇なのか?」とさえ思えてくる。
倫理観も合理的な考え方もできないから、「あれをいれたい」「これをいれたい」と欲望まみれの言葉が飛び交う。
 
教養のないお客に合わせて全体を弱体化させるのか、お客を選んで生産性を上げるのか、答えはとても簡単。
ちなみに、老人も障害者も普通に街中を歩いていた。
ヴィーガンや健康食品も、少ないけれど平気。
行く前から、「日本の、みんなで平等に弱体化主義を止めないと、福祉さえもままならなくなる」と考えていたが、ここまで答えを見せられるとは。
ベルリンは合理的で信用する街だった。
ドイツでこうなのだから、もっと生産性の高いデンマークに行ったら、カルチャーショック受けそうだな。
暖かくなったら、マジで行きたい。
 

電車内のマナー表示。これだけで十分伝わる。

合理的で信じる街。

2019.11.7

ぼくもだいぶ緩急のある人だと思っていたが、ベルリンはそれ以上だった。
日曜日は基本的にすべて休み。
だから、開いているスーパーマーケットは、入場規制がかかるほどの行列(日本の長蛇の列ほどじゃない)。
でも、店舗内はぎゅうぎゅう詰めではなく、ゆとりを持って買い物をしている。
 
これを日本に置き換えて想像してみる。
他のオーナーA「他のお客様のために、うちもオープンしよう(本当は儲けたい=欲望)」
他のオーナーB「あそこもオープンしたぞ、うちもオープンしなくていいのだろうか(不安)」
他のオーナーC「あそこもオープンしたぞ、うちも乗り遅れるな!(便乗)」
他のオーナーA「あれ、儲けが少ないぞ、日曜セールをしてお客様に喜んでもらおう!(儲けたい=欲望)」
他のオーナーB「あれ、セールをやっている店があるぞ。うちはできないから目立たせよう!(欲望)」
という具合だ。
 
これがベルリンの街中を歩いていると、他店舗なぞどこ吹く風。
店舗それぞれに、自分たちのアイデンティティがあるようだ。
時間になれば閉まるし、休みをしっかりと取る。
残業するのは上司のみ(帳簿付けをやっているようだった)。
調べると、従業員に残業をさせたら、その分休ませなきゃいけないことが法律で決まっているらしい。
破った経営者や上司は罰金や禁固刑。
つまり、めちゃくちゃ重い。
破る方が、合理的じゃない。
 
割引券や交通機関の乗車券も、人数分見せる必要がなかった。
一人見せ、もう一人が券を出すのに手間取っていると、「信じるよ」と言って、さくっと乗せてくれた。
美術館でも同じ。
ここで時間を取ることの方が、合理的じゃないんだろう。
乗車券は打刻しないと罰金なるが、改札はなく、ホームにある券売機では必要な人は買っているようだった。
つまり、罰金を支払うことも、いちいちチェックするのも合理的じゃないってことだろう。
 
日本の時間当たり労働生産性は20位(2017年OECD加盟36国中)、ドイツは7位。
一人当たりの労働生産性は日本が21位で、ドイツは13位。
「Trust you」に、違いを見せつけられたな。
 

写真は「隣駅が書いていない駅名表示」と「四辺がボロボロの巨大広告」。
ここからも合理性が受け取れる。

明日から出張です。

2019.10.31

10月31日(木)〜11月5日(火)までドイツ出張なので、その間の「サンポノけしき」はお休みです。再開は11月6日か7日を予定しています。
 

はい、という訳で、いまは出張直前のブログを書いております。
ドイツに行く前に色々とやっていたら、すでに疲労困憊気味で、このまま飛行機に乗るんかーい、と心配しております。
それよりも、ちゃんと起きれるんかーい、とも心配しています。
もっとそれよりも、疲れすぎて眠れないかもしれなーい、とも思っています。
眼が疲れすぎてまぶたは重いから平気かな。
 
はい、というはじまりですが、今日はちょっとした感動がありました。
クライアントのオフィスで打合せをして、ぼくがいない間に進めて欲しいことを若手の二人に伝えたのですが、二人ともやる気と頼もしさがあるんですよ。
普段、ぼくがマンツーマンで教えている人が、もう一人に対して、「俺が教えるからやってみなよ」と成長の後押しをしてくれていて、その姿を見て「いい光景だな」と思いました。
 
技術やアプリケーションの操作というのは、教えれば覚えられるものです。
しかし、成長というのは覚えただけでは不十分で、覚えたものから考える力だとか、伝わりやすくする配慮だとか、教える力だとかが身についたときに、成長につながるものです。
そして、人が成長するために必要なのは、その人のやる気です。
やる気がなければ成長はできない。
だから、成長したい人というのは、自分で時間を作っているんですよね。
時間がないからできない、というのは、成長したくないと言っているのと一緒。
だから、今日のぼくは、「成長したいと思うのなら、やってみるといいよ。もしも、やりたくないのなら、俺がやるから」という言い方をしました。
そうしたら、一人は「やる」と言い、もう一人は「俺が教えるから」と言った。
この二人は、もっと伸びるぞ。