合理的な情報量と性善説。

2019.11.8ビジネスの健康, 日々のこと

ベルリン滞在の感想を一言で表すと「とても合理的」になるだろう。
過ごしていて常に感じていたのが、「とても合理的」ということ。
情報が少なく、最初は右も左もわからない状態からはじまる。
お客がお店のサービスについてわかっていなければ、「なに?そんなこともわからないの?」という態度をされる。
けれど、一度経験すれば、この情報量で十分だということがよくわかる。
最小限の情報で予測できないのは、教養のない馬鹿なのだろう。
これはぼくがアジア人だからということよりも、街全体から感じたことだ。
だから、追いつこうと無理をしている雰囲気はなく、誰もが教養を持っている感覚がある。
それは情報量だけでなく、仕事中の集中力からも見て取れる。
みんな、集中力が高い状態で仕事をしている。
けれど、休んでいるときの街中の雰囲気は、まったくもって、休んでいる感じだ。
だから、レバレッジ(テコの原理)の掛け方が極めてうまいんだろう。
それは、土曜日の夜に聴いたベルリン大聖堂での合唱(コンサート?)でも感じた。
 
こうやって書いていると、冷たい国と予測されそうだが、ドイツの人達はとても暖かい人たちだった。
交通券や割引券は人数分見せなくても「信じてくれる」し(もちろん、全員持っていた)、歌詞カードがドイツ語で理解できないでいると、隣にいた人が英語で教えてくれたり、交通機関でも老人たちに席を譲っていた。
つまり、倫理観や道徳観と、合理的な考え方が浸透しているようだった。
こういうのを性善説というのだろう。
ホテルのサービスも最高で、よく気にかけてくれる。
その分、こちらが二束三文の小銭を払おうとすると、「いや、ウチの店、そうゆうんじゃないんで」という感じで断られる。
だから、ホテルの費用は高いが、接客は全員、気持ちがいい。
 
話を「情報量」に戻そう。
「日本は情報が多すぎる」と言うと、「そうそう」と共感されるが、その人をクライアントにして起きるのは「情報を減らす作業」という皮肉に満ちた現実だ。
クライアントになった途端に、「あれもいれたい病」が発症する。
「そうじゃないとクレームになるじゃん病」も同時に発症する。
昨今は「ユーザーのため病」とも言える。
最も目もあてられないのが「SDGs病」や「持続可能性社会病」。
先に言ったように、倫理観・道徳観・合理的な考え方が浸透していたら、三方よしは当たり前なのだから、わざわざビジネスの場で言わなくてもいい。
それを言うのは「格好つけたい病」と「稼ぎたい病」と「投機病」もしくは「平等に弱者になる病」を発症しているから。
これは生活者を相手にしても、事業者を相手にしても同じ。
いちいち付き合っていると、「みんな暇なのか?」とさえ思えてくる。
倫理観も合理的な考え方もできないから、「あれをいれたい」「これをいれたい」と欲望まみれの言葉が飛び交う。
 
教養のないお客に合わせて全体を弱体化させるのか、お客を選んで生産性を上げるのか、答えはとても簡単。
ちなみに、老人も障害者も普通に街中を歩いていた。
ヴィーガンや健康食品も、少ないけれど平気。
行く前から、「日本の、みんなで平等に弱体化主義を止めないと、福祉さえもままならなくなる」と考えていたが、ここまで答えを見せられるとは。
ベルリンは合理的で信用する街だった。
ドイツでこうなのだから、もっと生産性の高いデンマークに行ったら、カルチャーショック受けそうだな。
暖かくなったら、マジで行きたい。
 

電車内のマナー表示。これだけで十分伝わる。

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