Archive for the ‘日々のこと’ Category

上手いの反対が当たり前にあることで。

2019.8.11

土曜日は花火を見に行きました。
先日、手土産に水羊羹を持って行きました。
それぞれで話された言葉--「夏らしい」。
 
夏に限らず、ぼくらは季節の風物詩を喜ぶ。
他の国の人たちは知らないが、同じなんじゃないだろうかと思っている。
 
夏であれば、涼を感じるもの。
冬であれば、暖を感じるもの。
秋であれば、満ちるもの。
春であれば、華やなもの。
 
もちろん、他にもたくさんあるけれど、共通しているのは、相反するものが季節を通してあることだ。
夏であれば、暑いことが夏だ。
だから、今年のような梅雨寒が続けば、どんなに暑かろうが、「待ってました」と言い合う。
この暑さが当たり前になる頃から、反対の涼しいものを欲しくなる。
そうやって、ぼくらは季節を感じることが上手になる。
 
そう、季節を感じることがなければ、夏に涼を感じるものは欲しくないのだ。
もしも、季節として当たり前な要素がなくなれば、ぼくらは季節を上手に感じることはない。
下手になっていき、感じなくなる。
はじめから季節がなければ、下手にもならない。
 
全部の物事って、実はこういうことだ。
工夫が上手い人、回転が早い人、料理が上手い人、多種多様な「上手い」はその前に反対の要素が当たり前にあったからなんだ。

「選ぶ力」と「決定権」。

2019.8.10

「選ぶ力がある」のと「決定権を持っている」はまったく違うことなのだが、これを混同している人は多いだろう。
いや、考えたこともない人が多い気がしている。
 
子どもに食べたいものを選ばせるとき、決定権を与えているが、選ぶ力はない。
だから、子どもは自分が食べられない量のメニューや、食べられないほど辛いものを注文したりする。
おかわりでいいところを、大盛りを注文して残したりする。
そして、親から怒られて学習する。
 
実は、仕事でもそうなのだ。
お金を払う人は、決定権を持っているが、選ぶ力があるかどうかは分からないものだ。
むしろ、依頼する内容が専門的な知識や能力を必要とするのなら、依頼者に選ぶ力は備わっていないと言える。
「職業倫理」という言葉のはじまりは、これを前提にして生まれている(自己契約になって無効になるから、とか)。
だが、これを自分ごととして受け止めている依頼者は、かなり稀であり、大抵は考えたことすらないので、選ぶ力が決定権であると思い込んでいる。
そうやって決定をし続けても、選ぶ力は育たない。
なぜなら、子どもを叱る親の役割を、誰からもしてもらっていないからだ。
 
今もあるかもしれないが、昔は若手が好き勝手に企画を進めて、どうしようもない内容だと判明したとき、上司に当たる人は、皆の前でも叱責したものだった。
そういう現場を、ぼくは何度か見ている。
学校で、生徒が教師から怒られているようなものだ。
 
最近では、パワハラなんて言葉が広まったせいで、どうしようもないまま年齢だけ重ねる人も増えてきている。
そういう人は、決定権を持っているけれど、選ぶ力がないのに選ぶ力があると思っている人になるので、かなりタチが悪い。
叱り方が上手い人も増えてきているかもしれないが、その人が、どうしようもない人を育てる理由はどこにもないのだ。
仕事なのだから、より利益を向上できる若者を雇いたいものであり、どうしようもない人は仕事が回ってこなくなるだけだ。
 
叱るのはとても疲れることで、誰だってやりたくないことだ。
それでも叱るのは、その人の成長を望むからでもあるんだよな。
中には叱りたいから叱っている人もいるし、そうじゃなくても言い過ぎる場合だってあるだろう。
けれども、成長を望んでいることが根底にあるのなら、言い過ぎた場合は謝るもんだ。
だから、基本的には、叱り上手を求めるよりも、叱られ上手になった方がいい。
子どものうちに、これに気づけると、とてもラッキーだと思うよ。

最初に言った案。

2019.8.9

「それ、最初に言った案ですよね」というのは厄介だなぁと思った。
言われる方ではなくて、言う方であることが多いんだけど、この後、言われた方にどんな変化が起きるかで、その後の関係性は変わる。
そもそも、これが言われる状況とは、どんな状況か。
何かを言う→否定される→別の案を実施する、もしくは実施しない→否定された案に戻る、という流れだ。
 
デザインという仕事をしていると、こういうことは多いだろう。
というのも、先を見通さなければ効果的なデザインはできない。
その能力は、デザイナーとデザイナーじゃない人たちで差があり、それ故に「ヒポクラテスの誓い」のような職業倫理が必要になる。
だから冒頭のようなことが起きるのは仕方がないことだが、どのタイミングで気づくかが、良きデザイナーと付き合える機会に恵まれるかどうかが分かれる。
すべてのパターンを試行錯誤すれば、自ずと答えに行き着くわけだが、「これ、〇〇さんが言っていたことじゃん」と気づく人は、あまりいないような気がしている。
 
だから、気づく人と気づかない人で、クライアントとしての優先順位がつけられるわけなのだが、気づける人の方が、優先順位は高くなる。
もっと言えば、気づけたときにちゃんと言える人の方が、優先順位はさらに高くなる。
人間の時間は有限で、やれること、関係性を維持できる人数も決まっている。
だから、その中で、優先順位を高くしてもらうための、競争とは言えないような競争はある。
「バカだな〜」と言いながら、可愛げで何かを言ってもらえるうちに、どれだけ学習するか。
「バカだな〜」を重ねると「バカか」に変わり、「バカか」を重ねるとシカトに変わる。
こうやって優先順位というのは下がっていくものだ。
それは仕事関係でも、私生活の関係でも同じだろう。
 
話を仕事関係に戻すと、先を見通せないのがクライアントなのだから、相手の疑問に答えながら、提案をしていく。
相手にとっては突拍子もない案に聞こえるときもあるが、それも説明する。
説明によって、クライアントが先を見通せるイメージができると話が通るが、イメージできないと話は通らない。
イメージできない人というのは、手を替え品を替え説明をしても、イメージできないものだ。
だから、ぼくは説明はするが、説得はしないようにしている。
大事なのは、相手が気づくことだからだ。
それに、たとえイメージできなくても、ちゃんと信頼してもらえていたら、話は通る。
だから、職業倫理のある専門家の話が通らないのは、信頼されていないことの表れでもあるので、基本的に優先順位を下げていく。
 
さらに、どんなタイミングであれ、気づいたときに、自分の力で気づいたのか、蓄積されたヒントによって気づいたのか、どちらの判断をするかで、優先順位は変わる。
気づきというのは、蓄積されたものによって気づくレベルになるのだから、自分の力で気づくなどということはほとんどない。
だから、気づいた時に、気づかせてくれた人や物事に、感謝を伝えるのはとても大事だ。
その後に、気づいていなかった頃の自分について、「あの頃はバカだった」と認めるのかどうか。
ぼく自身、この連続だ。
だからかもしれないが、こういうことができる人を、ぼくは優先している。

会ったことがない人。

2019.8.8

寝ながら考えていたことがある。
「生きている人は死んだ人と会ったことがない」だ。
実際に死んだ人と、ぼくらは会うことができない。
想像で天から見ているとか、霊媒師だとか、幽霊だとかっていう話はあるけれど、友達と遊ぶように、死んだ人と会ったことはないのだ。
会ったと言っている人と、少なくともぼくは会ったことがない。
 
だからと言って、死んだ人がいなくなったかと言えばそんなことはなく、ちゃんとぼくらの中で、彼らは生きている。
年をとっていたり、年をとっていなかったりするけれど、ちゃんといる。
だが、それは想像上と言えばそうだ。
 
たかがこれだけのことなんだけど、なんとなしに「会う方法ってないだろうか」と考えていた。
これほどまでに実感があるのに、会えないことの方がおかしいんじゃないかとさえ感じている。
なんか、オカルトの方に話が行きそうなので、今日はここら辺で止めようと思うが、これはもうちょっと考えてもいいと思っている。

運が良かった、打率を上げる。

2019.8.7

人の話を聴いたり、読んだりするときに、「この人の話は信じられる」と感じられる内容がある。
 
ひとつは、「運が良かった」という言葉。
もうひとつは、「打率を上げる」という言葉。
 
人が何かを話すとか書くとかっていうときは、上手くいったことがあったからだ。
その理由を説明するときに、人は「こうしたから上手くいった」と言いやすいが、その方法が100パーセント、誰もが上手くいく方法かといえば、そんなことはない。
その人が同じような状況で、同じことをしたからといって、100パーセント上手くいくとは限らない。
だから、どんなことでも、言葉にできない要因が働いているのだ。
こういうことを正直に「なんでかわからない」と言ったり、「運が良かった」と言ったりするのは、自分が無能だと思われる可能性があり、不安が生まれるものだろう。
だから、人は自分の貢献度を話したがるのだが、ぼくはそういう人を信用しない。
その代わりに、正直に「運が良かった」と話している人を、ぼくは信用している傾向がある。
 
もうひとつの「打率を上げる」という話も似ているが、100パーセント上手くいく話なんて存在しないのに、人は兎に角、そういう方法論があるかのように、成功体験を話したがる。
だが、野球で3割バッターが凄いと言われるように、30パーセント上手くいけば、めちゃくちゃ凄い成果なのだ。
ピッチャーが投げる球は、ストライクにしろボールにしろ、キャッチャーが取れる範囲の、危険球とならない範囲に来ると分かっている。
この限られた範囲に来ると分かっている球でさえ、30パーセントの打率がせいぜいなのだ。
これを、ビジネスの範囲で考えてみたら、打率なんて5パーセントも満たないだろう。
「打率を上げる」という言い方や考え方ができる人と出会うと、この難しさを踏まえた上で、挑戦していると感じ、信じられると思う傾向がぼくにはある。
 
とても大事なことなので、もっと大袈裟に、もう一回言おう。
ビジネスの範囲で考えたら、打率なんてないに等しい。
 
「運の入る器を大きくする」という言い方も、打率を上げる話なんだよね。