Archive for the ‘日々のこと’ Category

礼節とは。

2019.10.24

礼儀とか、礼節って呼ばれることがあるでしょう。
人との関係が終わる理由には、「無礼」であることが往々にしてあるのではないでしょうか。
逆に、「あの人のようになりたい」と憧れるとき、相手の礼節に感動していることが多々あります。
 
こういう話をしているとき、思い出すのは、子どもの頃にされた「人にやられて嫌なことはするな」という説教です。
この教えが、いきなりホームランを量産するようなことってなくて、何度も経験しているうちに、いつの間にか、礼節が身についています。
 
ちょっとずつ、嫌なことや、失敗したことや、嬉しかったことの時間を積み重ねていくことで、なんとなく成長していくものが、礼節になります。
だから、子どもって基本的に無礼でしょう。

こういうときに「俺には嬉しかったことなんてなかったぞ」と言う人がいるでしょう。
これは残念ながら、「嫌な奴」で「無礼な奴」になっている傾向があります。
片や、「私はこんなにいいことをしてきた」という人もいますが、それも、独りよがりの手柄を独り占めタイプなので、いつの日にかしっぺ返しを味わうでしょう。
その理由を今から書きます。
 
礼節ってわざわざ書くと、ちょっと厳かな雰囲気になっちゃいますが、この中身って、「あなたのことが好きです」という好意と、「喜んでくれるかな」という期待と不安が、マーブル状に織り混ざったような気持ちが行動に表れることです。
だから、礼節のある人というのは、ペットの犬のように、基本的に相手へ好意を抱きながら、一歩下がっているような、ちょっと人間臭い部分もある人なのです。
 
だからね、礼節のある人って、愛情深い人だから、ぼくは好きなんだよな。

映画『イエスタデイ』を観てきた。

2019.10.23

『イエスタデイ』という、ビートルズの映画を観てきました。
ビートルズの映画と言っても、売れないシンガーソングライターの主人公が事故に遭って目が覚めたら、ビートルズが存在しなかった世界になっていた、という映画です。
だから、ビートルズの曲が流れても、本物のビートルズは出てこないのですが、とても優しく、とても愛情に満ち溢れている映画でした。
 
正直に言うと、ぼくはビートルズにドンハマりしたり、深く影響を受けた人ではないです。
ファンやにわかファンが「ポールが〜」「いや、ジョンが〜」と口角泡を飛ばす姿を見ても、なんのこっちゃ分からないのです。
けれど、曲を聴いて、気持ちがよくなります。
安心して聴けたり、楽しんだり。
そして、ビートルズでなくても深く影響を受けたものは、ぼくにもあります。
恋の辛さやハッピーさもあります。
主人公の後ろめたさと、リスペクトも。
これらが、全部報われる形で映画は進むことに、ぼくらは同時に救われます。
おっちゃんとおばちゃんが主人公に言った言葉が、ぼくらの言葉でもあります(観ればわかるから)。
 
突然、自分が深く影響を受けたものが、この世、いや、この歴史から忽然と消え、自分だけが知っている状況に陥ったら、自分だったらどうするか。
それは、感動したもの、感動させてくれるものが、存在を失うことでもあり、その喪失感って、想像しただけでも胸が締め付けられます。
もしも、それを体現させる力が自分になかったら、なんという苦しみか。
なんという孤独か。
もしも、これを体現させられる人が現れたのなら、なんという救いか。
とても深く考えさせられるとともに、主人公の立場でも、オーディエンスの立場でも、映画と同じ内容だったら、それはハッピーな世の中なんだと思いました。
 
本当に、ハッピーな物語と、ハッピーエンドを観させてもらいました。
すごい、いい映画。

10割バッターになる必要はない。

2019.10.22

一般論などの抽象度の高い話をしているとき、頭の中では具体的な事象が思い浮かんでいるでしょう。
これに気がつかずに話をすると、一方向からの話になり、口調が強くなります。
だから、「絶対にこうだ」という話をしている人というのは、冒頭のことに気がついていなかったりします。
多くのことは、大体、「こういう場合はこう、そういう場合はそう」と言った、どっちつかずともとれることです。
その中から、打率が高そうだったり、ホームランになりそうだったり、次につながる送りバントや犠牲フライになりそうなものの中から、適切だと思える案を選んでいるはずです。
 
けれど、そうやってわかっていても、10割バッターを目指していることになっていたりもするのが人間ってものです。
だから、大事なのは、「これは10割の考え方だな」と気づいたら、その都度、調整していくことです。
調整していくうちに、ちょっとずつ、10割バッターではなく、打率を高めることができるようになります。
何かが上手になる、というのと似ています。
いきなり上手い人というのは、まあ、ほとんどいないわけで、誰もが、初心者の状態から、「これは上手くいった」、「これは上手くいかなかった」を繰り返していきながら、いつの間にか「そういえば、最近は下手したことがなくなってきたな」という状態になる。
すると、次のレベルのことで、上手くいったりいかなかったりを繰り返すようになります。
この連続です。
だから、本当に成長している人は、10割バッターにはならないんですよね。

暗黙知の育て方。

2019.10.21

暗黙知というものがあります。
これは「明確には言葉にできないけれど、蓄積されている知識」というような、いわば「直感」と言われる類の知識です。
経験を積むというのは、再現性の高いコーチングなどで教えることができる知識と、そうじゃない暗黙知のような知識があります。
ぼく自身、学生の頃から社会に出てからも人に教えたり、育てる経験を重ねるにつれて、再現性の高い知識を教えれば、人は育つと思っていましたが、そうじゃない暗黙知が育たないと、応用力や柔軟性といったものが育たないことに、いつの頃からか気がつきました。
 
じゃあ、どうやったら暗黙知を育てることができるのか。
それは、失敗を許す環境であること、そして、背中を見せること。
失敗が許されないような環境だと、必ず成功しないといけないという恐怖が生まれます。
野球で例えると、打率が10割のバッターなんていないでしょう。
けれど、失敗が許されない環境だと、打率10を求められるということです。
だから、不可能なことをしようとして、恐怖が生まれる環境なのです。
たとえば、「どうしてできないんだ?」と質問するだけの環境とかね。
そうじゃなく、「どうしたらできるようになるだろうか?」や「できるようになるためのステップを細かく分ていったら、どういうステップになるだろうか?」というように、成功するための道筋を作らせる方向に、転換させる必要があります。
「失敗は成功のひとつ」と言われていることって、こういう発想ができる環境でもあります。
 
もうひとつは、背中を見せること。
暗黙知が直感と言われるように、その人が察知するときの雰囲気や、察知の仕方、ものを見ているときの見方、聞き方、味わい方というのは、説明しようとしてもできるものではありません。
説明したとしても、実際の状況とは大きな隔たりがあるでしょう。
これは、その人の姿を見て覚えるしかありません。
もしも、見て覚えられないのなら、「どうしたら察知できるようになるだろうか?」と、やはり、できるようになるためのステップを作っていきます。
ステップを踏みながら経験を積むことで、徐々に直感が働くようになります。
これが、暗黙知になります。
 
直感を信じられる環境は、人を信じる環境でもある。

怒りを抱かないと、退屈になる?

2019.10.20

気づいたことがあります。
最近のぼくは怒りを持っていない。
怒りを持っていないと、平和になります。
けれど、平和になると、退屈です。
これに気がつきました。
オーマイガ。
 
そうすると、退屈な物事を引き寄せることに気がつきました。
再びオーマイガ。
 
こうなると、原因を探りたくなるのが、人間の性というかぼくの性分です。
すると、ひとつのことが分かってきました。
怒りを持っていたときは、がむしゃらに生きていた。
努力を惜しまないし、人と闘うことも避けないし、勝ち取ることが好きだった。
協力することやコラボレーションも好きだった。
今は、そのどれもが面倒臭いとは言わないまでも、自分からはじめようとは思わなくなっています。
こうなる時系列と、怒りを持たなくなる時系列が、まったく被っていたのです。
 
もうひとつ被っていたのが、運動をしなくなったこと。
筋トレとランニングの頻度が下がり、負荷の軽い運動になり、ストレッチだけになり、腰痛ケアのためのストレッチだけになり、今は何もしなくなりました。
覚えている感覚として、筋トレやランニングをしていた頃は、これらをしていると「怒り」を感じていたということ。
だから、運動をしている最中は、自分を鼓舞していました。
悪く言えば、自分を罵倒しながら運動していたのです。
今は、それがまったくありません。
 
どっちがいいのかは今のところわかりませんが、退屈を感じているのなら、また運動をはじめようかと思っています。
とりあえず、昨日はちょっとやりました。
続くのかな〜。