Archive for 2015.3

余白のアンテナ。

2015.3.29

知らない町を歩くのは、新鮮で良い。今日は訳あって椎名町に行っていたのだけれども、「あぁ、いつもと違う」と感じた。
 
日本の町並みはどこも似たようなものだけれども、町にはその町なりの匂いというのがあるのだろう。椎名町は、漫画で有名な「ときわ荘」があったらしく駅構内にも紹介看板が大きく飾ってあった。
 
オーダーメイドスーツのお店に行ったからだろうか、職人の町という匂いが道中にしていたが、実際はどうかはわからない。職人というのは何だろうか? 僕もよく「職人気質ですね」という誉め言葉をもらうが、妥協したくないという想いの先に、職人という言葉が出てくる。
 
しかし、そうだとしたら、全ての人が職人になった社会というのが存在したら、それはそれで大変な社会だろうな。どこかで余白のようなものが欲しくなるのだろう。
 
この余白というのは、知らない町を歩く新鮮味に似ている。ハッとする発見があったり、普段と違うアンテナが立つような感覚だ。心や身体に余白がないときというのは、そんな余裕はなく、ぎちぎちの状態だ。
 
妥協しない想いとアンテナが立つような余白——それを併存できる人間でありたい。

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いらない境界線。

2015.3.22

世の中には色々な権利や地位というのがある。そういったものは、グレーゾーンっていうのはあまりなく、ここまでが私のものというような具合で明確に分けられる。地位においても同じで、役職、年齢、国籍などというような形而上学的なもので分けられる。
 
いわば、本来曖昧だったものに、「境界線」を概念上に設けているのだ。
 
概念上に設けているだけに、たくさんの問題が間接的に生まれてくる。領土権だとかパワハラなどもそうだろう。人間の中で人間にしか通じない境界線のために、生まれてくる問題だ。
 
しかし、本質の話をすると、我々は地球に住んでいるという前提がある。視界が届かないところまで陸や海は続き、山で遮られる。実際に生きる上で必要なものなんてのは、目の届く範囲でしか効果がない。
 
そんな前提を無視して、目に見えないもので境界線を設けるから、問題が生じるのだ。

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自然へと。

2015.3.22

昨年の10月にぎっくり腰を再発させてから5ヶ月、久し振りに筋トレをした。最近は暖かくなってきたから身体へのダメージも少ないだろうと思っていたら、本日の気温は低く、寒かった。それでも身体を動かしたいという欲求には勝てず、筋トレをしたのだった。
 
身体への負荷が大きくなる一方で、頭がクリアーになっていくのがわかる。血肉が目覚めるように、意識を身体へと向けていく。ケガをしないように、1つ1つの動きを丁寧に行いながら、猛る感情にも正直になってくる。
 
やはり人間は血肉が必要だし、暴力性を備えた動物の遺伝子も持っているのだ。それが恐怖を生み、勇気を生み、両方を使いこなす智恵を発達させてきた。そして、発達されすぎた智恵は廃れ始め、今また、自然に帰ろうとしている。
 
どこかで山を買い、戦争のない村をつくりたい。

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同じ人間。

2015.3.15

『バガボンド』という井上雄彦さんの漫画が好きで、よく読んでいるのだが、37巻で出てくる「自分だけのものと考えれば、命に価値はない」というようなことを沢庵和尚が話していたことを考えている。
 
その通りなのかもしれないし、本当にそうであろうか、ということだ。現に僕は僕の命に価値はないと考えているが、家族を持っていようといなかろうと他人の命の価値は感じる。それは誰が何を言おうとも、最後には主観で物事は動いているからであり、実際に、家族がいるものは、自分が死んでしまったときに家族が路頭に迷うことを危惧して、自分の命の価値を見出すだろう。つまり、命それ自体に価値を見出しているのはではなく、命がなくなった後の危機のために命が価値あるものとして考えられることになる。
 
それと同じように、僕が僕の命に価値を見出さないのは、別のことの方が価値があると考えているからだ。最高の一枚が描ければ、この命を差し出したいと思ってしまうのだ。
  

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何度目か。

2015.3.14

生きることがつまらないことのように感じており、それと引き換えに何に対してもワクワクしなくなっている。何事も見えてしまうのだ。いや、見えなくとも何がどうなろうとも、大したことじゃないことがわかりすぎてしまったのだ。社会はつまらない方向にしか進みようがなくなり、藝術は知識のものになってしまった。自分さえも燃え尽きてしまったかのような、空虚になってしまっている。今、書いていて気づいたのだが、空虚ということは、「空」の状態ということだろうか。つまり、何事でも吸収できる状態なのかもしれない。
 
これを書いてから数日が経った今日、「アップルシードα」という映画を観た。そこでは「希望」がキーワードとなり、荒廃した世界を舞台に、希望のための覚悟が問われてくる。そして一人の幼い少女から「希望のための覚悟」という台詞を聞いた時、自分が今まで描き、そのために動いていた「希望のある社会の姿」がおぼろげにしか見えなくなっていることに気がついたのだった。
 
何のために動いているのか、わからなくなっていたのだ。忙しさにかまけて、いつの間にか諦めることに慣れてしまっていたのだ。まだ俺は動けるし、もう一度、その世界を見ることは出来る。藝術の神様はまだ、俺と繋がっている。クリエイティブは、必ず、世界を変えることが出来る。

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未来ではない話。

2015.3.8

横浜駅近くの首都高と幹線道路を眺めていたら「人類は無意識のうちに自然に戻ろうとしているのでは?」と思った。
 
重力と地形に沿って川が流れているように、都市の引力に導かれて道路を一定の速度で車が流れている姿は、川のそれと大して変わらないように見える。
 
そうであるのならば、生物の進化は止まっておらず、今まさに生まれては進化しているAIを含むテクノロジーは、人類よりも進化した生物となる。 
 
だとすると、人類が他の生物を駆逐し、管理するようになったのと同じように、人類の全てをテクノロジーが支配するようになるだろう。
 
AIが、テクノロジーの世界に不要と判断した人間は駆除され、必要とされた人間のみ生きることが許される。それは愛玩であったり、競走馬であったり、モルモットのようであったりするのだろう。
 
そんな未来がすぐそこまで迫っているように思えて仕方がならない。

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没頭できるものと帰る場所。

2015.3.7

生きる理由を見失うときがあった。「何のために生きているのか」わからず、人の中にいる自分、人に求められる自分、自分の行いや存在に価値があるのだろうと思う反面、自分が生きる理由と隔絶されている感覚だ。
 
子どもの頃、それこそ10代はずうぅっとそんな感覚を持っていた。授業中には、窓のサッシにやってくる蜘蛛などの虫の動きを追うか、空を眺めていた。女の人を抱いても抱かれても、それは変わらず、空虚感は増すばかりだった。
 
そんな感覚がどうして薄れたかというと、没頭するものを見つけたことと、最期には一人になれる自然の存在を見つけたからだろう。クリエイティブは人生の全てを司り、自然は自分の帰る場所となった。
 
没頭できるものに正直になれば、使命を見つけることになる。人の中にいても役割は自ずと生まれるが、使命は自分次第で生まれるか生まれないかが変わってくるようだ。その使命を見つけた頃から、大抵のことを許せるようになった。そして、最期に帰る場所のことを思い浮かべては、安らかに笑えるようになっていったのだ。

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鳥であれ。

2015.3.1

海の中に潜ることと空を飛ぶこと——どちらをしたいかと聞かれたら、空を飛ぶ方がやりたい。この先にある樹々に止まり、一休みをしながら酒を嗜み、木漏れ日を受けながら昼寝をする。そうした日々が過ぎて肌寒くなり、雪が振る舞えに、高い高い山を越えて暖かな日差しを目指す。辿り着けるかはわからない。傷を持つかもしれない。それでも春の匂いを求めて、飛び続ける。私は、そうありたい。

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交代劇。

2015.3.1

昨日、マッサージを受けていると、途中から担当者が変わった。施術後、元の人と話してみると、「手首が痛くなった」ということだった。マッサージ師において、手首を傷めるのは職業病のようで、他にも腕に筋肉がついてしまうなど色々あるようだった。
 
2年ほど通っているお店で、施術中に担当者が変わるというのは初めてのことであり、施術者が変わればマッサージの仕方も変わる。半眠半覚の状態であった僕にとってはここがどこかのか分からなくなり、自分が浮遊しているかのような心地になった。
 
交代劇からの二人の担当者による施術が無事に終わり(?)、待合室に行くと元の担当者が職業病のこと、タイ古式マッサージの流派のことなど色々と話してくれた。
 
その中でも驚いたのは、腕立て伏せならぬ、親指での指立て伏せがあるということだ。格闘技やドラゴンボールの世界だけと思っていた訓練方法が、人を健康にするためのマッサージの世界という真逆とも思える世界にあるのだった。考えてみれば、人が人に触れて健康にしていくということ。恐ろしいパワーを使うだろうし、それをやってくれるのも僕と同じ人間なのだ。身体を傷めることもあるし、調子が悪いときもある。自分の不調を認め、別の担当者に変わる判断をした一人目の担当者、それを引き受けた担当者の連携がとても素晴らしいと思えたのだった。

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