動くことからはじまる。

2020.1.14 ビジネスの健康, 初心者のためのデザイン心理

経験値ってすごいよなぁ、と度々思います。
経験値によって、人はできることが増えて、不安が減り、動ける範囲が広くなっていく。
どんどん動いていた人ほど、どんどん成長していく、というのは本当だと思います。
それは手足をばたつかせた結果なんです。
部屋に篭って、手足をばたつかせてきた人は、ある一芸が優れるでしょう。
ぼくもそのタイプに近いと思います。
けれども、ただ篭っているだけだと、一芸を披露するのが怖くなります。
 
これは自慢でも何でもなくて、ぼく自身がやってきたのは、ホームページ上でがんがん発表するってことです。
SNSにも作品を投稿したり、こうやって毎日ブログを書いていることも発表です。
これは写真家の頃からやっていました。
気づけば、もう13年になります。
当時の内容を読むと、本当にひどいので、今のお客さんたちはそれを読んでも、「江口さん変わったんだなぁ」とだけ思って、心のうちに留めておいてください。
だって、人は変わりますからね。
 
手足をばたつかせてきたぼくは、世界にも行ったり、デザイン事務所にも勤務したり、世界シェアを誇る企業のデザインを手掛けたり、まったく違う業界の女性と結婚したり、人を育てたり、地方に行ったり、毎日仕事をしています。
だから、一芸があったとしても、披露するのを怖がる暇がありません。
 
それもこれも、毎日危機感があるからです。
怖がることがないのに、危機感があるって、意味がわからない人もいるかもしれません。
けれども、危機感というのは「職業は長く続かない」という危機感です。
 
写真家だけだった頃は、「このままギャラリーとかアートフェアで発表を続けても、業界内で知名度が増えるだけで広がりがないぞ」と思っていましたし、デザイン事務所にいた頃も「このまま労働生産性を改善できなきゃ、まじで死ぬぞ」と思っていたら体を壊しましたし、独立した今も、お客さんに頼りにしてもらいそこそこ稼げていても、このまま老後まで安泰な職業だとは思っていません。
いつも、仕事や環境に対して危機感を感じています。
 
だから、手足をばたつかせては、新しい要素を取り入れてみたり、新しいことを始めてみたりするわけです。
そうやって撒いた種は、すぐに芽は出ないけれど、人から頼ってもらえることは、いつの時代も、1年以上前から動いていたことでした。
どの種が芽が出るかはわからないのです。
人と話していると、「あれ?俺、この人の抱えている問題の解決策を経験しているぞ」と気づくのです。
そこで初めて、「あぁ、あの経験が役立った」となります。
そのためには、いつの時代も、動き続けている必要があるのです。
部屋の中でできることでも、外に出る必要があることでも、いつも動き続けるのです。
 
そうしていると、不安はあっても、不安に押し潰される暇はないんです。
「全部趣味」って言っているぐらいだから、手足を動かして考えて仕事をしているのはとても楽しいです。
いつも、いつの間にか夜になって、「あぁ、お風呂沸かして寝なきゃ」と思って寝ています。
英語の勉強をしたり、デザインをやったり、写真を撮ったり、新しいことの準備をしたり、毎日が動いているし、手足をばたつかせて、動かしているんです。
それが、いつの日かの役立つ経験になるかもしれないってことです。
 
もしも今、不安を抱いているのなら、それは動いていない証拠です。
不安をなくしたいのなら、動きなさい。
これは、自分にも言い聞かせていることです。

単純な能力こそ大事な理由。

2020.1.13 ビジネスの健康, 初心者のためのデザイン心理

昔のやり方と変えた方がいいものと、変わらないでいいことというのがある。
とても当たり前なはじまりになってしまったが、しばしば思うんだよね。
 
昔のやり方と変えた方がいいと思う代表例は、「あの頃はよかったんだぞ」と言われているようなことだ。
高度経済成長の時代や、バブルの時代をバリバリ働いていた人たちが、当時を懐かしんで、美化して話している内容は、ほとんどが今では通用しないことだ。
むしろ、当時の日本の経済成長の中身を見てみると、まったく低い労働生産性だったことは、周知のことだ。
高度経済成長と言われていた時代も、円とドルとの関係によって、成長が促されたという説だってある。
これを物語るかのように、やはり労働生産性は当時から低いのが日本だったのだ。
今更ぼくが言うことでもないが、GDPは「人口×労働生産性」なのだから、人口が多ければ、自ずとGDPは高くなる。
日本の一億人超えの人口は、世界的に見てもトップクラスの多さなのだ。
 
一方で、昔から変わらないでいいことというのがある。
それは、人間としての能力だ。
だから、正確には「変えようがない」と言った方が適切だ。
マンモスを追いかけていた頃から現代に至るまで、人類の脳味噌は変わっていないと言われているが、そこまで遡らなくても、現代人と呼ばれる人間の能力が変わっているはずもない。
それにも関わらず、現代人は昔の人に比べて、基本的な能力が低くなっているのではないだろうか。
それは、ここ50年ぐらいを見ても言えるだろう。
それは、どの職業においても「単純なこと」をさせてみると、能力の低さがよくわかる。
 
例えば、デザインという仕事で言うと「文字間隔」だ。
現代っぽい文字感覚もあれば、昔っぽい文字間隔というのはある。
だが、大前提として、「ちゃんとしている文字間隔」があるのだ。
それが、できない人が多い。
ぼくらの年代でも、かなりの人数ができない。
 
これは、それを身につけなくても、お金を稼げるようになってしまったということだ。
この代償は、安い仕事が増えているということでもあるのだが。
「ちゃんとしている文字間隔」を現せないデザイナーが増えると、基準となるレベルが下がっていく。
基準値が下がって、生じるのは金銭的価値が下がるということだ。
 
なぜならば、作ることはできないけれど、それがわかる人は「ちゃんとしている文字間隔」を現せる人のお客さんとなる。
すると、お客さんが確保できない「現せないデザイナー」は、わからない人(文字間隔などどうでもいい人)をお客さんにするしかなく、そういう人というのは値段を下げるしかなくなる。
差別化というのは、「ちゃんとした能力」がある人たちによって行われている方法であり、そうではない人たちが利益を上げようとすれば、薄利多売の方法をとるしかなくなる。
そして、数として、デザイナーもお客も、「わからない人たち」が多くなってしまうのだから、下がった基準値が日本産デザインのスタンダードとなっていき、業界全体が薄利多売の方法をとるようになっていく。
工場製品と違って、人の手を動かす業種での薄利多売の方法が先細りなのは目に見えている。
 
何もこれはデザイン業界に限った話ではないと思う。
演劇の舞台でも「ちゃんと立てる人」が少なくなっていると聞いたことがある。
知識は増えているかもしれない。
だが、知識を活かすための、土台となる能力が低ければ、増えた知識が活かされることもない。
頭で何でも解決できると思ったら大間違いだ。
手足を動かしてこそ、「ちゃんとした能力」というのは身に付く。
横着がってちゃいけないよ。

デザイン料金の理由とは。

2020.1.12 ビジネスの健康, 初心者のためのデザイン心理, 日々のこと

まだ詳しくは話せないけれど、進めていることがある。
それに関係することなんだけど、ぼくらの費用が高いと言われる理由はいくつかあるし、諸説ある。
有名な話が、「ピカソと偶然出会った人が、コースターかなんかの裏に似顔絵を頼んだらサッと描いてくれたけれど、請求された金額に驚愕した」って話がある。
そこでは、「1分で描いた絵と他の作品も同じ、私(ピカソ)の作品だ」といった理由が語られている(細かい内容は絶対に違うと思うけれど、それはご勘弁を)。
これと同じような理由に、「培った知識や技能が反映されているから」という理由がある。
ぼくも、これに反対する理由はない。
士業や医師などの専門家に支払うお金が高いのも、そういった専門性に由来しているからだ。
だが、もうひとつ、忘れてはいけない理由がある。
 
それが、コストだ。
ぼくの話では何度も登場するが、人間の営みには「感情」「時間」「お金」「労力」の四点におけるコストが発生する。
そして、この四点のコストと同じ内容のメリットがあり、人間はコストよりもメリットの方が上回らなければ、消耗し、ゆくゆくは過労死となる。
つまり、どんな人でも健康的な人であれば、コストよりもメリットの方が上回った行動をしているわけだ。
 
これを、ぼくらのコストに割り当てていくと、専門家の仕事というのは、素人もしくは自分よりもレベルの低い専門家がお客となる。
そして、ここでのやりとりには、説明が発生する。
塾講師や教師という職業があるように、わからない人が理解できるように説明することは大変な仕事だ。
ましてや、彼らと違って、説明がメインの仕事ではない職業にしてみたら、ひどく面倒臭いことでもあり、これが感情のコストになる。
つまり、説明には感情・時間・労力のコストが発生しており、このコストの合計を、お金のメリットだけで超えなければならないのだから、自ずと費用は高くなる。
そして、不幸にもぼくたちの業界で過労死や体を壊す人が後を絶たないのは、費用も安くなっているのに、コストが増えているからだ。
そう、今の日本のクリエイティブ業界で起きていることは、人間を消耗品として扱う現象だ。
 
業界の話は後日に回すとして、ここまでで費用が高くなる理由には、「専門性」と「コスト」があることがわかっただろう。
そして、専門性はなくすことができない(むしろ経験を積めば積むほど増していく)としても、コストは下げることができることにお気づきだろうか。
コストが増大する原因には「感情」「時間」「労力」が関わっている。
そうであれば、これらのコストを極力減らせば、必要となるメリットも少なくなるということだ(拝金主義のように儲けようと思わなければだが)。
つまり、お客都合の修正や、選り好みさせるための無駄な案をつくることを止め、専門家を信じて任せれば、余分な説明を省略することができる。
費用を高くしているのは、依頼人自身なのだ。
 
実際に、ぼくは独立してから、「この人は嫌いだな」と思う相手とは仕事をしないようにしているし、どうしても見積もりを出さなければならないときは、かなり金額を高くしている。
「この金額でも依頼したかったらどうぞ」という態度なのだが、金額の前に契約書の段階で引き下がっていく(業務委託なのに契約書を交わさないで依頼しようと思っていることがそもそも間違いなのだが)。
けれど、これとは真逆に、自分が好きな相手や、やりたいと思ったことは費用感としては最低金額を設定している。
最低金額というのは、ぼくら夫婦が暮らしていける金額だ。
稼いだ金額は、学びのために使ったり、恩送りとして人に使ったりしている。
 
もちろん、金額の設定は人それぞれで構わないと思うし、考え方も人それぞれで構わないと思う。
だが、お金を払う時に「高いからまけてよ」という人は、自分が撒き散らしているコストを考えてみてはどうだろうか。
ぼくの例はもちろん一例でしかないが、写真でもデザインでも世界的な賞を受賞している人の考え方として、参考にしていただけたら幸いだ。

英語のクラス。

2020.1.11 おすすめ, 心の健康

今日は書くことを決めないで書いている。
 
今月末から始まる英語のクラスのテキストが届いた。
どのくらいのペースで進めるのかがわからないので、少々どきどきするが、とても楽しみなどきどきだ。
内容としては、やっぱり中学生レベルなんじゃないだろうか。
それでも、語学学習は楽しい。
 
イギリス人夫妻がデンマークに移住した体験記『幸せってなんだっけ? 世界一幸福な国での「ヒュッゲ」な1年』に、「語学学習をすると幸福度が高まる」というようなことが書かれていたと思うが(違っていたら申し訳ない)、実際に、英語を習っていると楽しいのだ。
 
何度も書いているが、日本語禁止の4時間もある英語のクラスが終わると、ヘロヘロになるが、誰かを助けたくなる心地良さでいっぱいになる。
クラスメイトも良かったのだが、色々な年齢で出身地も違う、職業も違う人たちが、焦ったりわからなかったりすることを、助け合いながら答える。
これを4時間も続けると、それは本当に気持ちがいいのだ。
 
これから始まるクラスは、前回よりも難しいクラスになっているのだが、テキストを読んだ限り、ちょうどいい難しさなんじゃないかと思えた。
ゆっくり読めば、解けなくはないレベルの内容だが、以前よりもわからない単語も出てきている。
「あぁ、中学一年から三年になったときって、こういう感じだったか」と懐かしい気持ちさえしている。
クラスはまだ始まっていないから、実際のところ、どうなるのかはまだわからないが、それでも、楽しそうだとわくわくしている。
 
「ビジネスで役立つから」という理由じゃなくたっていい。
楽しいから、やるんだ。
これはもう、趣味なんだよ。

なりたいものの前に、やりたいこと。

2020.1.10 ビジネスの健康

「〇〇になりたいんですが、どうしたらいいですか?」と質問されるときがある。
正直に答えるなら、なるだけなら今この場でなれる。
だが、この質問をしている人が抱いている欲望は、「〇〇になって、充実した仕事をして、不自由のない暮らしをしたい」だろう。
けれども、仕事をすればわかるが、本当にたった一つの技能だけでうまくいく職業などないのだ。
 
例えば、ぼくで言えば「クリエイティブディレクター」「アートディレクター」「写真家」を公式プロフィールとして記載しているが、別に「グラフィックデザイナー」でも「UI/UXデザイナー」でも構わない。
詳細に語れば語るほど、その人の強みというのが伝わりやすくなるのかもしれないが、グラフィックデザイナーがコピーライティングをしたっていいし、コピーライターの描いた絵がそのまま採用されることだってある。
ある一つの技能を高めれば高めるほど、横展開がしやすくなり、経験を重ねるほど、他のこともできるようになっていく。
むしろ、年齢を重ねても、ひとつのことしかできない人というのは、今の世の中で仕事をしていくことは難しいのではないだろうか。
 
これは何も、「ゼネラリストになれ」と言っているのではない。
世の中は中途半端なゼネラリストもどきが多いのも事実であり、ホワイトカラーの仕事しかしたことがない人がそうなりやすいようだ。
まずは、たった一つでいいから何かしらのスペシャリストになれば、大抵は他の職業に必要な技能も経験している。
むしろ、人類史がはじまってから発明された職業で、応用が効かない方が難しいものだ。
 
これはぼく自身、浪人時代に築いた国語の能力に、大学時代の心理学を組み合わせながら写真家となったことでも言える。
そこにグラフィックデザイン、Webデザイン、プロダクトデザインを組み合わせていった結果、事業で抱える問題点というのが視えるようになったわけだ。
それが、世の中ではブランディングと言われるだけであり、クリエイティブディレクターやアートディレクターと言われるだけなのだ。
ここでの順序としても、国語の問題を解くのが好きだったし、心理学を勉強するのも楽しかった。
写真を撮って、現像することも楽しかった。
デザインを作ることも楽しかった。
好きなことに対して、自分の手足を動かすことで経験値を重ねていき、その結果、色んなアイデアが結びつくようになった。
初めから考えることが得意だったわけじゃない。
経験していないことは、誰だってわからないものだ。
つまり、最初から、ぼくがクリエイティブディレクターを名乗っていたら、誰の役にも立たない、かなり無能なクリエイティブディレクターだっただろう。
 
だから、最初の質問として、出発点が職業名というのは本末転倒のことであり、「何になりたいか」ではなく、「どうありたいか」「何をやりたいか」が重要なのだ。
ぼくが若手を育てるとき、必ずこういったことを質問するようにしている。
そうすれば、その都度、人生の軌道修正ができるからだ。
この癖をつけておくと、自分で自分のやりたいことを見つけることができるようになる。
職業名はあくまでもおまけだ。
まずは自分のやりたいことを見つけて、ひたすらそれをやってみるといい。
飽きた時には、別の何かが見つかっているはずだ。
そうしたら、軌道修正してまたひたすらやってみたらいい。
そうして重ねた経験が、あなたの価値となる。