孫悟空から影響を受けたこと。

2020.1.19 ビジネスの健康, 心の健康

『ドラゴンボール超』の映画を観ていました。
ドラゴンボール世代のぼくにとっては、主人公である孫悟空は身近な存在です。
ここ数年で気づいたことがあり、ぼくは悟空にかなり影響を受けています。
悟空が強い奴と闘うときに「わくわくするな〜」と言う感じ、ぼくはとても共感します。
 
ぼくの業界には天下一武闘会はないけれど、代わりに、アワードがあります。
ぼくが初めてアワードに参加したのが24歳ぐらいだったと思うのですが、気分は「すごい奴に会いたい」っていう感じでした。
腕試しというのもあるけれど、すごい奴と会って、切磋琢磨するのって、少年漫画のストーリーですよね。
功を奏して(?)、ぼくも受賞歴を重ねて、名前を知ってもらっていたり、ぼくの方が知っていたりとかで、知り合いが増えていきました。
知り合いと言っても、クリエイターというのは、一人一人が独立した存在なので、遠くにいながらもちょっと輝きを放つっていうかね。
知人とも、友達とも、仲間とも違う、不思議な存在が増えていきました。
 
その後、ぼくは若手を育てるようになっていきました。
このときに、ぼくが意識しているのは、「力の使い方を教えること」と「ぼくを超える存在として育てること」の二つです。
これも、孫悟空に影響を受けています。
原作漫画の最終話は、天下一武闘会で出会った、自分の才能を持て余している少年を、悟空が育てるという場面で幕を閉じます。
闘いの連続だったドラゴンボールの悟空が、最後は「育てる」ことを選んで終わるのです。
 
しかも、悟空の理由は単純です。
「強く育った少年と闘いたい」
今回観ていた映画でも似たようなシーンがあるのですが、他の登場人物からは「狂ってる」と呆れられます。
でもね、ぼくはそんな悟空の気持ちがよくわかります。
自分がどうしても好きな分野、そして、自分が生きている分野において、自分よりもすごい奴と出会えることは、とても「わくわく」します。
 
すごいと思うためには、自分よりもすごくなきゃいけない。
自分の得意じゃない分野に目を向けたら、そういう人はたくさんいます。
もちろん、別の分野のすごい人たちにも「すげー!」と思いますが、どうやってもその人たちとは競いようがないでしょう。
だから、仲間になったり、友達になったりします。
でも、ライバルにはならないのです。
それが、自分の得意分野で自分よりもすごい奴がいたら、どうでしょうか。
競える相手がいるってこと、ライバルがいるってことは、とてもわくわくすることです。
ぼくが人を育てるとき、あの時の悟空を、よく思い出すんです。

どんな人をお客さんにしたいか。

2020.1.18 ビジネスの健康, 初心者のためのデザイン心理

「やらないことを決める」という大切さがありますが、デザインというのはこの連続だなあ、と度々思います。
街中のデザインを見ていると、色んな色を使って、色んなことを謳って、色んな絵柄を載せているもので溢れています。
するとどうなるか。
安っぽくなるんです。
GUCCIなどのメゾンブランドでは、そんな広告みないですよね。
ぼくの好きなエディ・スリマンがクリエイティブディレクターを務めているセリーヌの広告もそうです。
メゾンブランドの広告って、ほとんど決まっているのです。
つまり、要素を減らせば減らすほど、高級感や高い品質を伝えられるのに、みんなこの逆をします。
その理由を端的に言えば、「みんな勇気がない」からです。
減らすことは勇気が必要です。
だって、お客さんになる可能性が減っちゃうかもしれないから。
 
けれど、考えて欲しいのが、「どんな人をお客さんにしたいか」です。
昔、日本では「お客様は神様です」という言葉が生まれて、今日に至るまで長いことこの言葉が生きていますが、そのせいで、お客さんにしなくていい人まで、お客さんにしなきゃいけない不安や欲望に駆られています。
新しく会社を建てる人の相談を受けるとき、必ずこのことについて考えてもらうようにしています。
もちろん、ぼくも考えます。
どういう人をお客さんにしたいか、どういう人の助けになりたいのか、どういう人を救いたいのか。
「やりたいこと」「得意なこと」「必要なこと」を事業にするというはじまりから、実際に動き始めてから集まってくるお客さんはどういう人がいいのか。
欲望に支配されたら、そりゃあ全員をお客さんにしたくなるでしょうが、その中にはどうしようもない人も紛れているわけです。
でね、大事なのが、そういう人には、お引き取り願うってことです。
断る軸を持っておくんです。
 
「カスハラ」という言葉が生まれているけれど、これを生んだ原因って、やっぱりね「売りたい欲望」が強い会社が多いってことなんです。
極論を言えば、売ることが目的となった会社にとってみたら、売る商品はなんだっていいわけです。
そういう商品を買ったお客は、当然、嫌な思いをします。
嫌な思いを一度、もしくは何度か経験したら、何かを言いたくなるでしょう。
そして、元から怒鳴る人であったら、カスハラになりかねないです。
 
だから、こういう人を生まないためには、断る態度も大事ですが、売りたい欲望をなくすことなんです。
「いいものを作る」という毅然とした態度と、「断る」という毅然とした態度というのは、実は同じです。
売るのではなく、商品について適切に伝えて、相手がいいと思ったら、買ってもらう。
こういう広告づくりって、デザインがよくないといけないんです。
デザイン経営と言うと、売上を上げる方法のように語られてしまうけれど、経営者を賢者にしていくことでもあるんです。

絵に描いた餅も、描くための手が必要。

2020.1.17 ビジネスの健康, 初心者のためのデザイン心理

今の日本のビジネスの現場を表すと、「手を動かさない人の言葉が幅を利かせている」ということだろう。
ブルーカラーやホワイトカラー、ナレッジワーカーと、色々な分け方を、色々な人たちがしているように、この差は大きくある。
もっと言えば、殿様と武士や、王様と兵士のように、昔からあったこととも言える。
武士の中でも、指揮する人と前線で戦う人とが分かれていたり、前線で戦う人でも歩兵と騎馬兵などの、たくさんの差があったはずだ。
 
けれど、昔と今の違いで言えば、命の掛け方だろう。
争いごとだったから仕方がないのだが、昔の人たちは、兵士も王様も負けたら死ぬという意味では、同じところに立っていた。
指揮する者と前線の者も同じであり、前線の方が命を落としやすい、という差だった。
そして、前線で貢献したものは、ちゃんと表彰されていたから、漫画『キングダム』の主人公のように、大将軍を目指して前線で戦うことができたわけだ。
これが、どれだけ前線で戦っても大将軍になれないのなら、人はあそこまで命をかけられるのだろうか?
 
今の日本のビジネスの現場を見ていると、この仕組みがなくなっているように見える。
元も子もない話をすれば、会社というのは、経営者が得するものなのだ。
さらに言えば、前線に配置されなければ配置されない方が、得する仕組みになっている。
そういう社会だと、どうなるか。
人は経営者になることを望み、そうでなければ、上役になることを望むようになる。
リスクという点で言えば、責任を取らされるのは前線にいる人たちであり、表彰されて、経営層に入るなど、夢のまた夢である。
「アルバイトから店長になった話」というのがあるが、フランチャイズ店の店長に、それほどの力がないことは、周知のことではないだろうか。
 
何が言いたいかというと、ぼくが手を動かすプレーヤーで居続ける理由は、腕を錆びさせないためだ。
どんな基礎的なことでもいい。
手を動かし続けることで、いつも新たな発見があり、技術や知識を教えることができる。
手を動かせる人が一人でも多く育つことで、いま前線で戦っている人が少しでも報われる仕組みになっていけばいいと思っている。
 
そう思うようになったのは、デザイン事務所に勤めたことがきっかけだ。
こういうことを考えているとき、事務所に勤めていた当時の、事務所の社長との会話をいつも思い出す。
 
社長「昼飯は食べたんか?」
江口「まだです。今日はコンビニになりそうです。」
社長「わしは昼飯がコンビニとか〇〇(ファストフード店)というのが嫌なんや。生きた心地がしないんや。」
 
ぼくは関西弁を話さないし、当時の記憶だから、正確性は欠けるかもしれないが、その時、ぼくは絶句したことをハッキリと覚えている。
断っておくが、コンビニ飯を馬鹿にされたことが絶句の理由じゃない(美味しいけれどね)。
昼が過ぎようとする頃のトイレで、昼飯から帰ってきた彼と遭遇したときの会話だ。
ぼくはあの事務所で、良いも悪いもたくさん経験させてもらった。
 
その会社が何を売りにするのかはそれぞれだし、経営者がどういう思想を持っていたって自由だ。
だが、ぼくが事業者である以上、関わってくれる人が報われるような仕組みを提供したいと思っている。
報われたと思うかどうかは相手次第なのでどうしようもないが、少なくとも、関わってくれた人へ、配慮のある振る舞いをしたいと思っている。
口の悪さや無知や立場を理由に、相手を傷つけていいことなどない。
 
手を動かさない人が指揮をとっても、兵士は無駄死にしやすくなる。
指揮者というのは、手を動かせて、頭も働かせられる人がなった方が、無駄死にが減り、功績も讃えやすくなる。
『キングダム』にロマンがあるのは、ここなのだ。
新規事業にアンダードッグ効果が必要と言われるように、手足を動かして、前線で奮闘する人たちは応援したくなる。
作るためには、手足や体、臓器が必要。
絵に描いた餅も、描くための手が必要なのだ。
忘れちゃいけないこと。

両方大事なこと。

2020.1.16 日々のこと

新しいiMacを買って、今まで使っていたMac Book Proのデータなどを移行しようとしたときのこと。
 
#mac移行アシスタントメモ。
1. 旧mac→新macによる移行アシスタントで、新macのosアップデートを求められて、画面の指示に従ってosアップデートをしても、osアップデートが失敗する場合。
2. 旧macのターゲットディスクモードを解除して、旧macと新macを繋いでいるケーブルを外すと、新macのosアップデートが成功する。
3. 新macのosアップデートが成功したら、旧macと新macをケーブルで繋いで、旧macをターゲットディスクモードにする。
4. すると、macの移行アシスタントを再開できる。
 
#旧macのターゲットディスクモードの解除方法
1. 旧macの電源ボタンを長押しして、旧macの電源を落とす。
2. 旧macと新macを繋いでいるケーブルを外す。
3. 旧macの電源ボタンを押して、旧macを起動する。
 

新しいiMacを買って何に感動しているかって、「ケーブルの少なさ」です。
今更かよ、と自分にツッコミを入れたくもなりますが、デザイン系でラップトップを使っていたら、外部ディスプレイが必要になってくるわけです。
そして、スピーカーがついていないディスプレイを買った日にゃあ、スピーカーも必要になってきますよ。
しかも、外部キーボードは、昔の有線のものを使っていました。
ということは、電源コードも含めると、今まで合計7本のケーブルを使っていたのが、1本になったわけですからね。
そりゃあ、すっきりします。
 

すっきりしたついで(?)ですが、洗濯機も買い替えました。
今までのは、一人暮らしを始めたときに買ったものですから、17年と10ヶ月は使っていたことになります。
途中の12年は外置きでしたから、外装はボロボロになり、洗濯コースのボタンはすべて剥がれていました。
それでも、使えていたんです。
でも、今年に入ってから、洗濯をすると「キキ」って鳴るようになってしまってね、買い替えを決めました。
 
そうしたら、びっくりです。
新しい洗濯機で洗ったら、脱水力が違うのなんのって。
洗濯物が乾くの早いじゃない。
もしかしたら、ちょっと綺麗になってる(?)なんて思ったり。
 

再び、このすっきり流れ(?)ですが、3、4ヶ月ぶりに髪の毛を切りました。
いつも自分で切っているのですが、風呂場でやるもんで、めちゃくちゃ寒いこの時期は億劫になります。
でもね、髪を切って、思いましたよ。
すげー、さっぱりする!
髪の毛って、瘴気(しょうき)を吸うというか、考え事や悩み事、迷った事なんかの搾りかすを吸っていると思います。
だから、仕事の忙しさに翻弄されている人って、髪の毛がぼさぼさになるでしょう。
あれって、頭が瘴気を吸いすぎて、とっちらかっている状態なんですよね。
いや〜、この流れで切ってよかったです。
 

一見すると、全部バラバラのことですが、よ〜く読んでいると同じ内容のことです。
アンティークとは違ったことですが、汚れや疲れが溜まってしまったものは、ちょっとずつ新しくしていく必要があります。
思えば、道具を磨くというのも、表面についた汚れを落としていくことと、栄養を与えることの二つが同時に行われていて、磨くことの積み重ねでアンティークになっていくわけです。
ぼくらは髪の毛を切ったり、爪の手入れをしたり、お風呂に入ったり、栄養のあるご飯を食べたり、感動して心の栄養をとったりして、アンティークに向かっているんです。
新しくしていくことと、年輪を重ねていくこと。
両方大事なことです。

判断基準を事前に持っておく。

2020.1.15 ビジネスの健康, 心の健康

ヒロシさんの『働き方1.9』を読んだことについては以前書きました。
その本の中で、「最悪の状況を想像して天秤にかける」みたいなことが書かれていましたが、ぼく自身も選択肢があるときはこれを行います。
そのときにやっておかなければならないのが、自分にとっての最悪な状況を常日頃から考えておき、その答えを持っておくことです。
 
なぜこんなことをしなきゃならないかというと、選択肢を選んでいるとき、人は自分にとって都合がいいものを選びやすいからです。
そのため、選択肢を与える人がいる場合、大抵は「相手にとって聞こえがいい」ことを言うもんです。
そうして、選ぶ本人は自分にとって都合のいい選択肢を選んでいるつもりでも、実は相手にとって都合がいいものを選ばされていただけだった、ということになるからです。
 
こういうとき、人はよく「騙された」と言うもんですが、ぼくの考えでは、「どちらも悪い」です。
正確に言えば、TPOによって、悪い割合は変化しますが、ただし、大前提としてコミュニケーションにおいて一方的に悪くなる側がいるというのもおかしな話です。
これは何も性善説や性悪説という話ではなくて、相手の話していることを「聞き取り」「解釈」し、「判断」する能力があるかどうか、なのです。
そこで、「自分にはそんな能力がない」と言う人がいたら、それは弱さを売りにしすぎです。
「人は弱く、他の人と協力しあって生きていかなければならない生き物です」という類いの説教とは違う種類の弱さです。
というのも、他の人と協力しあうためには、自分も相手に何かを与えなきゃ「協力しあう」にはなりません。
与えるのがお金であれば「サービス」になりますし、他の人ができないことや苦手なことを肩代わりするのなら「協業」になるでしょう。
仕事であってもなくても、これが協力というものです。
でも、一方的に弱さを売りにして、頼ってばかりいるのは、相手を利用しているだけです。
 
つまり、「騙された」と言う人って、その分、誰かを利用し続けた人が、別の誰かに利用されたということでもあるのです。
 
ぼくも誰かに利用されたという経験はあります。
むしろ、山ほどあります。
仕事で言えば、ヒアリングや初回ミーティングまでして、そのままいなくなる、ということもありました。
事務所に勤務していたときは、当時の社長案件でロゴまで作らされて、そのままバックれられるということもありました(今でも覚えていますが、年末の忙しい時期です。しかも、当時の社長はぼくらに謝罪もしませんでした)。
これが友人であれば、相談だけして、言いたいことだけ言って、ケロっといなくなるなどです。
情報だけ引き出していく、というのはけっこう多いパターンです。
仕事であってもなくても、ぼくのコストがかかっているのです。
これをちゃんとわかっている人って、やっぱり今の日本には少ないです。
けれど、ちゃんとわかっている人って、ちゃんと仕事になるんですよね。
 
ぼくは20代の頃、写真家としてめちゃくちゃな数の展示をしていました。
そのほとんどに来てくれた友人がいるのですが、やっぱりね、そういう人ってちゃんとした仕事を与えてくれたり、ちゃんとした人を紹介してくれるんです。
だから、ぼくはその人の仕事って、誰の仕事よりも優先させます。
全人生をかけていると言ったら大げさだけど、家族ごと面倒をみるつもりです(頼りない自分だけど)。
 
そういう人がいるって、やっぱりね、自分もちゃんとしようと思います。
色んな人に利用されてきたけれど、騙されたというような経験がないのは、相手の話をちゃんと聞いて、解釈して、自分にとっての最悪な状況を元に判断して行動しているからだと思うんです。
その経験をいつもすることで、ちょっとずつこの能力の精度が高まるのです。
ぼくも、強さを手に入れたとはまだまだ言えないですが、弱いままでいいとは思わないです。
強くないと、誰かに協力するなんてできないんですよ。
助けたい人がいるから強くなるとは格好つけすぎだと思うので、「一緒に遊びたい人がいるから強くなる」、そういうことでいいんじゃないでしょうか。