質問力について。パート3。

2020.1.29 ビジネスの健康

昨日のブログで書いたこと。
 
「つまらない質問をするぐらいなら、沈黙に耐えられるようになった方がいい。」
 
ぼくは沈黙がわりかし平気な方です。
そして、用件がなければ、帰りたい人です。
この二つがあると、無駄に人を傷つける会話をしないで済みます。
 
年齢を重ねて気をつけなければならないのが、無駄な説教です。
他人は何かを言いたくて堪らないものだとは以前も書いたけれど、年を重ねれば重ねるほど、つまらない小言は増えるもの。
今のぼくもそうかもしれませんが、違いは、このブログを読みにくる人は、望んできているということです。
そうではなく、たまたま居合わせた現場で、年上の人が年下の人に向かって、つまらない小言を言い続けているケースがあるでしょう。
それが、本当に嫌なのです。
ぼく自身、大人が当たり前としてきたことに対して疑って生きてきたので、そういう気質の人って、年上の人は何かを言いたくなるものですよね。
けれど、直接関係のないことであれば、敢えて言う必要があるかどうかを判断するのも、分別のある大人の対応です。
「言わない」という選択肢も、ちゃんとあるんです。
 
もうひとつ、沈黙に耐えられないでする会話で人を傷つけるのは、つまらない質問です。
これについては、昨日、一昨日と書いたので省略しますが、つまらない質問の大半は「それをあなたが知って、どうなる?」というものです。
 
たとえば、「法人化をいつするのか?」という質問。
ごく稀に質問されますが、そんなことを知って、どうするつもりなのでしょうか。
残念ながら、どうするつもりもないのでしょう。
だから、法人化についてのぼくの考えを話しても、その後、質問が続かないのです。
何度も考えて、その上で経営者は行動を選んでいます。
それはぼくも同じです。
専門家たちに法人化について話を聞いて、法人というものがどんなものか、どんな性質があるのか、どんな仕組みなのか、歴史的にどんなはじまりだったのかなどを調べた上で、ぼくは今、法人化をしないことを選んでいます。
これを考えたこともないような人たちが、沈黙に耐えられないで、自分の興味を満足させるためだけに質問を投げつけてくるのです。
質問を投げつけられたぼくは多大な時間と労力を奪われ、感情も逆撫されるのです。
 
行政関係の仕事であれば、慣習的に法人企業でないと受けられないようですが、そうだとしても間に別の企業を挟んで、そこから業務委託をすればいいこと。
地方創生関係であれば、地域に密着して動いてくれる企業がいた方が、外から支援をするぼくらも助かります。
そういう依頼をしたいがために、「法人化をいつするのか」を質問しているのだったら、ぼくは別に気分を害しません。
けれど、こういう理由なら、不躾に質問するのではなくて、質問の意図を説明しますからね。
やっぱりね、下手な質問をする人というのは、沈黙に耐えられない臆病さがあるんです。
下手な質問をすればするほど、質問者の評価は下がり続けます。
沈黙で得られることは、けっこう多いのにね。

質問力について。パート2。

2020.1.28 ビジネスの健康

会話をする上で、「しないように気をつけていること」がある。
そのひとつに「会話のための会話はしない」がある。
昨日も書いたが、会話のための会話をすると、たいていはロクな結果にならない。
相手の業績を聞くように、自分が満足するための質問しかしなくなるのだ。
 
質問というのは、自分の疑問に相手が答えてくれるものだが、勘違いしてはならないのが、答える権利は相手にあること。
質問をされた方は、どういう答え方をしてもよく、さらに、質問に答えるか、答えないかを判断するのは質問された方がするものだ。
もちろん、質問者の気分を害する答え方をしたり、答えないことで気分を悪くしたのなら、その責任の一端は答えた方にある。
 
だが、世の中、特に日本では、質問者の回答に答えなければならないと思い込んでいる人が多くいるように思える。
もう一度言うが、「答える義務」など、実は存在しないのだ。
たとえ、法定の場であったとしても、答えたくないのなら答えなくても構わない自由が、質問された方にはある。
答えなかったことで有罪になるかもしれないが、その責任を引き受けた上で、回答する・しないの自由を得ることになる(先ほどとは逆に、答えることで有罪になるかもしれないが、ここでの話題とは別の話だ)。
 
なぜこんな話をするかと言うと、質問をすることで相手から奪うものを考えていない人が多いからだ。
これも何度も話しているが、どんな人間の行いにも「感情」「時間」「お金」「労力」のコストがかかっている。
そして、質問した方は自分の疑問を解決して、自分が気持ちよくなるために、誰かに質問をする。
質問をするとき、質問者が支払うコストは「労力」「時間」、場合によっては「お金」だ。
これに対して得られるメリットは解決による満足感の「感情」と、調べ続けることで発生する「時間」と「労力」のコスト減少だ。
 
一方で、質問された方が、質問に回答することで発生するコストは「時間」と「労力」であり、答えている間に稼ぎができない分の「お金」、さらに面倒臭いことに無理やり答えなきゃならないのなら「感情」になる。
これに引き換え、回答によって手に入れられるメリットは、なにもない。
場合によっては、優越感という「感情」や、報酬という「お金」だ。
つまり、質問というのは、回答する方のコストが圧倒的に大きく、回答者のためにあるものではなく、質問者のためにある。
これに気づかずに質問をしていると、下手な質問を繰り返すことになり、つまらない会話を繰り返すことになる。
そして、つまらない質問者は誰からも相手にされなくなる(お金を払えば別だろうが)。
 
回答者において、はじめから高圧的な人は別として、質問者の質問の仕方やタイミング、回答後の反応が悪くて、その後の対応が悪くなるということは多いと思う。
ぼく自身、質問をされて答えたのに、その後何の反応もなかったり、何も聞き入れていない様子であるのに、また同じ人から質問されたら、わざわざ時間を割いてまで対応しなくてもいいだろうと思うことだってある。
そして、人を育てていてわかったことだが、こういった躾のようなことを教えると「厳しい」と捉える人の方が、いつまで経っても改善しない。
「気をつけよう」とする人の方が、配慮のある振る舞いができるようになっていく。
 
質問は会話をはじめるきっかけであるが、その分、使い方を間違うと、自分の首を締める。
コミュニケーションが会話によって成り立っている部分が多いのだから、質問力はとても大事だ。
つまらない質問をするぐらいなら、沈黙に耐えられるようになった方がいい。

質問力について。

2020.1.27 ビジネスの健康

家族や友人から、仕事の業績を質問されるとき、ぼくは決まって「ぼちぼちです」と答えるようにしている。
これは経験上、何を言ってもいい回答にならないし、いい会話にならないことをわかっているからだ。
 
仮に右肩上がりで上手くいっていることを言うとしよう(実際にそうだったとしてもいいし、見栄をはってでもいい)。
そうしたら、相手はこちらの回答を自慢と捉え、自分のすごいところを言って張り合ってきたり、あら捜しをはじめるか、いたずらに持ち上げたり、へりくだって何かを得ようとしはじめる。
 
反対に、うまくいっていないような回答をするとしよう(これも実際にそうだったとしてもいいし、謙遜してでもいい)。
そうしたら、相手は優越感に浸るか、役に立たない人生訓を語り出すかのどちらかだ。
とにかく、他人というのは、何かを言いたくて堪らないのだ。
 
そして、多くの人たちとは違う生き方をしている人や、思想を持って事業をしている会社が失敗すれば、「ほら見たことか」と言いたくなるのが日本人だ。
他人にへりくだって、迎合して、好きでもないことを嫌々やるのが仕事だと思っている日本人からしたら、ぼくのようなタイプは、うまくいくとつまらないタイプでもある。
控え目に言っても、流石に37年も生きてみると、痛いほどそういうものだとわかる。
 
だから、最初の質問では、どちらでもない回答をして、相手の好き勝手に想像させておくのが一番望ましい回答だということを学んだのだった。
これはぼくの処世術のひとつとも言っていいし、ぼくよりも年上の人は、どうでもいい人生訓を語るよりも、こういうどうでもいいことをやり過ごす術をもっと教えて欲しかった。
 
そもそも、業績を聞いてくる人は、ぼくの思想や仕事への姿勢などどうでもよく、ただ、会話のための会話をしたいだけなのだ。
仕事を依頼しようとしている人だったら、相手の業績など聞かずとも、仕事を依頼してくる。
その違いも、完全にあるのだ。
依頼というのは一種の覚悟も必要だから、どうでもいいことを質問している余裕なんてないんだろう。
依頼をしてくる人の質問と、依頼をしてこない人の質問の力強さの差ってあるんだ。
依頼をしてくる人は、ぼくの思想や仕事への姿勢を聞きたがる。
覚悟を持って事業をやっている人ほど、上手くいく、失敗するのは運の要素も絡んでいることがわかっているから、上手くいっている(いっていない)のはたまたまなのか、それとも自業自得と言えるものなのか、見極めようとする質問をしてくる。
人として信用できる人間なのか、を見られているような。
もしくは、自分と生きる上での哲学が重なるのかどうか、というようなことを見られている。
だから、放っておく質問と、真摯に答える質問って、やっぱりあるんだよね。

語学学習の成長の方法。

2020.1.26 ビジネスの健康, 心の健康

大学の生涯学習で英語を習っていることは以前にも書きましたが、今回のコースが始まりました。
今までよりもちょっと上のクラスに挑戦したぼくは、朝から意気込んで「Rock’n Roll!」なんて勢いよく言う始末です。
それで、教室につくと、前回よりも人数が多いことが一目でわかります。
ただ、内容は省略しますが、授業が終わった後、ちょっと拍子抜けした自分がいました。
「あれ?なんか普通だったぞ」と。
前回の超初心者クラスのときに受けた内容から予測していたのとちょっと違ったんです。
「なんかもっと、こうガツガツした感じじゃないの?」「だってレベルアップしているんだぜ」みたいな。
なので、四時間の授業が終わった後、ぼくは気持ちの落ち着きどころを見失っていました。
けれど、これを妻に話したら、流石の一言です。
 
妻「それが成長ってことじゃない。」
 
あぁ、そういうことか。
大学以外でも、ぼくは毎日アプリで自習をしていて、ネイティブスピーカーの話を聞いていました。
聞いて、真似してしゃべって、考えて、答えて。
知らず知らずのうちに、ぼくは成長していたのかもしれません。
ただ、授業は初回だと言うことで、ちょっとスローペースだったのかもしれませんし、様子見だったのでしょう。
 
これにおごらずに、いつも通りの自習をするようにします。
というのも、楽しいですから。
ぼくにとって英語学習は、It’s my hobby. なんですよね。
挑戦とか、目的とか、ビジネスとか、そんな崇高なことじゃないんです。
楽しいこと、好きなことだから、続くんですよね。
これが、サンポノたる由縁でもあります。
散歩のついでに、仕事をする。
それぐらいがちょうどいいと、本当に思っています。
だって、仕事に貴賎なんてないですから。
ぼくらの仕事の価値はあるでしょうけれど、仕事の価値なんて、全部の仕事にあるんだから、競うものじゃありません。
もしも、自分の仕事に貴い価値があると思っているのなら、同時に賎しい仕事があるのでしょう。
ちなみに、アートもデザインも昔は賎しい仕事と思われていたんですからね。
貴い価値があるのなら、賎しい価値もあるということを忘れてはいけません。
自分の仕事が犯罪じゃなくてよかった、ぐらいに思っておけばいいんです。
 
これは何かを習うことでも同じです。
習うとか、本を読むとか、運動するとか、どこかで崇高なことのように思われるけれど、そんなことはなくて、好きだからやるんでしょうに。
成長することが崇高なことになりすぎたら、息苦しくてしょうがないです。
もっと、気楽に。
空を眺めて、深呼吸をして、ゆっくり取り組めば、楽しさは出てくるんだ。
 
あ、そういうことか。
今日の英語のクラスも、そういうことだ。
こういう楽しみ方があるんだな。
空を眺めて、深呼吸をして、ゆっくり取り組む。
散歩と同じだ。
自分自身にも発見がありました。

近所の中華料理店。

2020.1.25 おすすめ, 体の健康

今週から行き始めた近所の中華料理屋さんがあるのですが、ここが美味しいんです。
中華料理にしてはあっさり目で、家庭的な味とお店の味の中間にあるような、ほっとしつつお店で食べている満足感が味わえます。
今週は2回行っちゃいました。
 
突出したいいところがあるわけではないのですが、ホールを任されている娘さんのホスピタリティや、味の落ち着き方、禁煙による匂いのなさ、それに明るさがいいんでしょう。
食べていると、「あぁ、こういう仕事いいよなぁ」と、職種は違えど、目指すあり方のひとつだと思わせてくれるのです。
 
おしゃれカフェのようにいきった感じもなく、老舗料亭のような背筋の伸び方もなく、かといって、薄汚さもないのです。
差別化とか、特長を伸ばすとかよりも以前に、基本的にいいよなぁ、と言えるお店です。
だから、わざわざ電車に乗って行くようなところでもないのですが、家族で行くにはすこぶるいいお店です。
 
もっと言っちゃいますが、営業時間は11時〜14時と15〜17時まで。しかも餃子は15時からじゃないと注文できない。
ん? 15時から17時って、早めの夕飯なのか、遅めのお昼なのか、そこで餃子つきで食べるの?
っていう具合に、ぼくはまだ餃子が食べれていないのです。
絶対に、美味しいだろうに。
 
こういうお店にもデザイナーが必要?
バカ言っちゃいけませんよ。
それこそ、野暮ってもんでしょう。
もう十分、デザインは果たされていますよ。
町だけでいいのか、外からもお客が必要なのか。
全然違いますからね。