Archive for 2019.3

言葉を扱う。

2019.3.17

何かのサービスや商品をはじめて購入するとき、冷やかしの気持ちがほとんどなのではないだろうか、と思った。
少し耳障りよくすれば「試してみる」だが、「どれどれ、そこまで言うならちょっと試してみようか」というのは、冷やかしとも言えなくはないだろう。
そして、試した結果、書いてある以上の感想を抱いたら、その後も購入してみるし、同じ店の別のものを試してみる。
これはサービスでも、製品でも、料理でも同じはたらきがある。
 
こういうことを考えた背景には、最近のコピーライティングって、コピーライティングになってないよな、というところからだ。
多くの人が、説明書きをしているだけで、コピーライティングを書けていると勘違いしていたり、「こだわり」「丁寧」などの、自社が言うべきでない単語が並んでいる制作物を見かける。
私たちが言葉を扱うとき、説明をしながら抽象度のコントロールをしている。
ボディコピーで書ける内容をキャッチコピーで書く必要があるのかなどを、多くの人は理解しないまま、言葉を使っている。
 
広告物を作る際、見る相手が「なに?」と、立ち止まることが必須となる。
「実際に自分だったら購入する気持ちになる」というところと、「どんな気持ち、どんなシチュエーションにおいて打率を高めるのか」を推敲している。
「売りたい欲望」を持ったまま言葉を扱うと、下品な言葉が並ぶ。
だから、依頼人が言葉を考えてはいけないのだ。
日本語で話せるからといって、言葉が扱えるとは限らない。
ま、これはデザインやクリエイティブのすべてに言えるんですけどね。

独立は仕方のないこと。

2019.3.16

ひとりで仕事をしているといいのは、どこまでも試すことができる、ということぐらいだろう。
それを良しと思うのなら、ひとりを勧める。
独立相談を受けることがしばしばあるが、ぼくの場合は、好きで独立したわけではない。
仲間から「お前のようには仕事はできない」と言われる孤独。
 
昔からそう言われていた。
「誰もがお前のように〇〇じゃない」という言葉。
百歩譲って、褒め言葉として受け止めても、言われる方は孤独だ。
 
印刷など、本当にできないこと以外は誰かにやってもらっても、それ以外は巻き取るのがオチだ。
「あぁ、ここまでしかやらないのね」
「この程度でいいのね」
と思ってしまう。
誰かに何かを任すとき、少なからず期待はあるが、ことごとく期待は裏切られる。
その先に進もうと思ったら、自分でやらなければ、なんとかハラスメントになってしまう時代。
 
結局は、ひとりなのだ。
もちろん、体はボロボロだ。
それでも、いいもんが作れない方が嫌なんだな。
悪魔にでも命を渡した方がマシだ。
こういう考え方は、10年前と変わらんな。
そう思ってハッとする。
とっくのとうに、この仕事で10年超えちまったなぁ。
 
このブログのタイトル「キャッチボールをするような」は、ぼくの願望なのかもしれないな。

貧乏性なのか?

2019.3.15

「最近、映画館や美術館に行ってないなぁ」と思ったけれど、すぐさま「いったい、何を心配してんだ?」と思った。
映画やアートだけではなく、読書や運動なんかも、やっていないとそれを気にしそうだ。
そして、多くの人がこういうことを、思ったことが一度はあるのではないだろうか。
もしも、運動だったらサボっている心地がして、後ろめたいのだろう。
読書も知識欲を満たすところがあれば、同じようにサボっている気がする。
映画館や美術館も、知識欲だろうか?
まぁ、仕事に役立つから、観といた方がいいものは観に行く。
純度100パーセントのお休み気分で、何かを観に行くことってあるのだろうか。
ない気がする。
そもそも仕事に役立てない性格ではないんだよなぁ。
そういう意味では、参考文献になるし、知識欲なんだろうなぁ。
あまり、褒められたことじゃないとは思うけどね。

依頼の心得、受託の心得。

2019.3.14

最近、教える立場になることも多く、デザイナーとの関わり方を質問されることも多い。
そのときに決まって言うのは、次のことだ。
 
依頼の心得は信任。
受託の心得は職業倫理。
 
どちらが欠けても、上手くいかない。
言ってみれば、これはデザイナーとの関わり方というよりかは、専門家との関わり方であり、裏を返せば、この2つで大抵のことはうまくいく。
ベリーイージー。
上手くいかないときは、このどちらかが欠けている。
ベリーベリーイージー。
とても簡単だ。
 
昔、ヨガから派生したボディワークを習っていたときに、ある男性講師が口癖のように言っていた「ベリーイージー」。
できる領域に入った瞬間から、難しかったことは、ベリーイージーになる。
言い方もあって、ぼくはこの言葉が好きだった。
いま思い出しても、やっぱりいい響きだ。
 
書きながら思い出したのは、信任と職業倫理があっても、挨拶や返事ができないなど、人としてのアレコレが足りていないと、まったくもって前提が崩れるだろう。
依頼人には疑いが発生しやすくなるし、専門家は優先度を下げやすくなる。
勘違いしないで欲しいのは、依頼人も専門家も、相手のことだけをしているわけではないということだ。
「あなたのことだけを四六時中考えている」というのは、大嘘つきの台詞だ。

攻撃はいかん。

2019.3.13

いま花粉症に効くというお茶を飲んでいて、昼食終わりの休憩です。
実際に花粉症に効くかどうかは置いといて、まぁ、こういう普通のことがあります。
この時期、いろんな人が神経質になります。
8年前のことを忘れさせちゃいけないぞ、と口々に言います。
うん、その思いや考えも納得だ。
当事者であってもなくても、忘れることの悲しさもあるもんね。
でも、攻撃しちゃいかん。
忘れることも普通なのです。
少しずつ、おぼろげになって、少しずつ、思い出さない時間の方が多くなることも、健康的です。
そうじゃないと、あちこちで何かあったことを挙げる大会のはじまりです。
人から「大変だったね」と言われる人の方が、騒いでいなかったりもします。
「俺の方が不幸だ」とは、けっこう言わないものです。
周りが言っているだけのこともあるものです。