Archive for 2019.1

思考の余白がない。

2019.1.16

仕事しかしていないと、思考の余白がなくなってしまいます。
こうやって書くということは、この状態を、いいものとして思ってはいないということです。
 

お寺で手を貸したおばあさんは、あの後、大丈夫だったろうか。
お稲荷様の鳥居は風で倒れていないだろうか。
不思議なもので、誰かや何かを助ける日だったのかもしれない。
 

冬は鍋がおいしい。
朝はチゲ、昼はチゲのおじや、夜は寄せ鍋。
 

もうね、久しぶりに頭がやばいっす。

アゴリラックス。

2019.1.15

なんで世の中には批評が多いんだろう、と思います。
考えでもなくて、つぎはぎの批評がね。
なので、ぼくは批評じゃなくて、どうでもよい日記のような、やってることを書きます。
最近、意識的に口から息を吐きます。
鼻から吸って、口で吐く。
ま、こうやって書いていると、普段と変わらず、口を閉じて鼻で呼吸しちゃうんですけどね。
 
きっかけは、年々、口の中に疲労を感じるようになってきたことです。
歯医者に行って調べてもらったら、噛み合わせの悪さから、僕の噛み締めがとても強くなっていることが分かりました。
下顎が発達しきれていないことも。
歯の中心はずれていないのに、人よりもちょっとだけ下顎が発達していないことで、色々と起こるようなのです。
実際に歯医者で治療をしてもらっているのですが、自分でも顎をリラックスさせようとして、口で息を吐いて、深呼吸をしているのです。
 
成果はまだわからないけれど、焦ってる感じは減ったんじゃないかなぁと思うんですけどね。

ちゃんと嗅ぎ分けていた。

2019.1.14

だいぶ長いことスランプのような不調を感じていたのですが、このスランプを抜け出す案件が、ちゃんと目の前に届いていたことに気がつきました。
クリエイターとして次のステップに突入するための壁を、自ら破ろうとしていたのですが、それが、不調を脱する鍵にもなっていたことに気がついたのです。
今まで培ってきたものだけでは届かない。
今までのものをすべて出しながら、さらに成長させたものを加えないと、ユーザーに届かないであろう、そういう仕事です。
びっくりしました。
 

昔、週末になると田舎の方に行って、山の麓で酒を飲んで、昼寝をして、帰ってくることをしていましたが、これがぼくにとって必要なことだった。
自然の多い地域の移住先を探していたこと。
そういう必要なことを、ちゃんと嗅ぎ分けて、選んでいたこと。
いま、それをやっていないのと、不調が続いていたこと。
これらはちゃんと繋がっていた。
もうね、びっくりすることだらけですよ。

あの頃の目。

2019.1.13

絶句されるほど働いている。
年末年始は、クライアントとコミュニケーションをとらないで生まれる「思考の余白」を使って、仕事をしていた。
365日、まったくの休みなどない。
そうでもしないと、クライアントが考えてくれたことに、ノーを言えるわけがないと思っている。
「つまらなそう」「おもろい」と言うには、それだけの背景が必要なのだ。
だれだけ想像しても、とても良さそうなものを作っても、これはイケるというものを作っても、それでも、事業には運が作用する。
毎月、電車を乗り継いで神社にお参りに行っては、自分のことや家族のこと以外にも、クライアントの事業の成功と関係者たちの幸せを願っている。
どれだけ仕事をしても、「まだやれることはあるんじゃないか」と不安になる。
どれだけ十全に準備をしても、天候で台無しになることもあれば、悪天候が味方につくこともある。
人も、会社も、最後には運としか言えない、どうしようもないことがある。
最後には神頼みしかない、というときがあるのだ。
そんなことする人間じゃなかっただろう?と、自分でも思う。
もっと人類至上主義だっただろう、と自分でも思う。
打合せで、自分でもジジくさいことを言うと呆れることも増えてきた。
どうしようもないことを経験し続けてきたし、そうして視えることも増えた。
弱っている人でも享受できる商品、サービスになっているかと考えてしまう。
弱い者の味方になるつもりはない。
似合わない。
いい人である必要はないが、こういうのが今の自分のクリエイティビティになっているのは確かだ。
しかしだ、写真家でしかなかった頃の、褒められない人間だった頃の、ああでしか作れないものもあった。
妻はその頃の私を知らない。
それよりももっと前、カメラと出会った時の好奇心と冒険心でしかできないものもあった。
今もあの時の目が、体のどこかにあるのを感じる。
しかし、暗がりの中、見つからないのだ。
いま、作品を作っても、あの頃の目は起きていない。
これからの人生に、必要な目だということは感じている。

思考が支配される。

2019.1.12

思考が何かに支配されているとき、それしか手につかなくなります。
けれど、こういう状態って、ほんとうによくないよなーと思います。
他のものに目がいかなくなるとき、視野が狭くなっているだけです。
視野が狭くなって、視界が深くなるのは、カメラだけです。
思考はまったく逆です。
ちょっと、ゆるゆるな感じの方が、思考は深くなります。
そもそも、「深くなる」ことを素晴らしいことと思うのも、かなり偏見がはたらいています。
頭ががっちがちに硬くなるのも同じことです。
うーん、やっぱり今日は、思考が支配されているな。
全然、頭が回らないや。