Archive for 2019

会ったことがない人。

2019.8.8

寝ながら考えていたことがある。
「生きている人は死んだ人と会ったことがない」だ。
実際に死んだ人と、ぼくらは会うことができない。
想像で天から見ているとか、霊媒師だとか、幽霊だとかっていう話はあるけれど、友達と遊ぶように、死んだ人と会ったことはないのだ。
会ったと言っている人と、少なくともぼくは会ったことがない。
 
だからと言って、死んだ人がいなくなったかと言えばそんなことはなく、ちゃんとぼくらの中で、彼らは生きている。
年をとっていたり、年をとっていなかったりするけれど、ちゃんといる。
だが、それは想像上と言えばそうだ。
 
たかがこれだけのことなんだけど、なんとなしに「会う方法ってないだろうか」と考えていた。
これほどまでに実感があるのに、会えないことの方がおかしいんじゃないかとさえ感じている。
なんか、オカルトの方に話が行きそうなので、今日はここら辺で止めようと思うが、これはもうちょっと考えてもいいと思っている。

運が良かった、打率を上げる。

2019.8.7

人の話を聴いたり、読んだりするときに、「この人の話は信じられる」と感じられる内容がある。
 
ひとつは、「運が良かった」という言葉。
もうひとつは、「打率を上げる」という言葉。
 
人が何かを話すとか書くとかっていうときは、上手くいったことがあったからだ。
その理由を説明するときに、人は「こうしたから上手くいった」と言いやすいが、その方法が100パーセント、誰もが上手くいく方法かといえば、そんなことはない。
その人が同じような状況で、同じことをしたからといって、100パーセント上手くいくとは限らない。
だから、どんなことでも、言葉にできない要因が働いているのだ。
こういうことを正直に「なんでかわからない」と言ったり、「運が良かった」と言ったりするのは、自分が無能だと思われる可能性があり、不安が生まれるものだろう。
だから、人は自分の貢献度を話したがるのだが、ぼくはそういう人を信用しない。
その代わりに、正直に「運が良かった」と話している人を、ぼくは信用している傾向がある。
 
もうひとつの「打率を上げる」という話も似ているが、100パーセント上手くいく話なんて存在しないのに、人は兎に角、そういう方法論があるかのように、成功体験を話したがる。
だが、野球で3割バッターが凄いと言われるように、30パーセント上手くいけば、めちゃくちゃ凄い成果なのだ。
ピッチャーが投げる球は、ストライクにしろボールにしろ、キャッチャーが取れる範囲の、危険球とならない範囲に来ると分かっている。
この限られた範囲に来ると分かっている球でさえ、30パーセントの打率がせいぜいなのだ。
これを、ビジネスの範囲で考えてみたら、打率なんて5パーセントも満たないだろう。
「打率を上げる」という言い方や考え方ができる人と出会うと、この難しさを踏まえた上で、挑戦していると感じ、信じられると思う傾向がぼくにはある。
 
とても大事なことなので、もっと大袈裟に、もう一回言おう。
ビジネスの範囲で考えたら、打率なんてないに等しい。
 
「運の入る器を大きくする」という言い方も、打率を上げる話なんだよね。

漫然と眺める場所。

2019.8.6

場所はとても大事だと思っている。
どんな場所でも一定のパフォーマンスを発揮するのも大事だし、100パーセントのパフォーマンスを発揮するように場所を作り変えるのも大事だろう。
だが、これらと同じように、自分とピタッとハマる場所と出会うことも大事だと思っている。
 
そういう場所は職場だけじゃない。
たとえば、ぼくは考え事をするときに、近所のお寺に行く。
お寺の駐車場と、正門へと続く道の中間に位置している広場に向かう。
たまにそこにも車が止まっているから、もしかしたら駐車場かもしれないのだが、その広場にも、お寺に続く小さな入り口がある。
大人であれば中腰にならないと頭をぶつけてしまう、それぐらい小さな入り口と向かい合った端に、石でできたベンチがある。
そこに座って、考え事をしている。
 
視線の先には小さな入り口があり、入り口の先には道が続いている。
道の両脇には林が広がっており、よく手入れされているので、緑が気持ちいい。
石のベンチに座っていると、この時期は蚊に刺されてしまうけれど、それでもやっぱり、考え事をしたいときには足が向かってしまう。
 
こういう場所は、一定のパフォーマンスを発揮する必要もないし、作り変えることもできない。
この場所と自分が、ピタッとハマるかどうかだ。
思えば、ぼくはこういう場所を見つけるのが得意だ。
住んでいるところで必ず、考え事をするための場所を見つけている。
 
こういう場所がないと、今までの作品はなかったかもしれないし、今までの仕事はなかったかもしれない。
手を動かすだけでもなく、上手いことやろうと意気込むのでもなく、ただ漫然と景色を眺めながら考え事をする。
そうこうしている内に、不思議と「あっ」と思いついたりするものだ。

鶏肉のレモン炒め。

2019.8.5

毎日、こうやって書いていると、書くことなんてないよーという日だってある。
そういう時は、料理のことを書くといい。
 
今年から作り始めた料理に「鶏肉のレモン炒め」がある。
これはたまたま入った定食屋さんで食べた料理だ。
一軒家を改装していると思うのだが、飲食店というよりかは、人の家で定食屋が営まれているようなお店だった。
家の近所にあるのではなくて、通っている鍼灸院のある街にあるので、バスや電車に乗っていかないと食べれない立地にある。
気取った旨さではなくて、料理上手な家のご飯を食べているような美味しさのお店で、ピンポイントで食べたいときがある。
冒頭の料理は、初めて入ったときに食べた料理だ。
 
ぼくの癖なのだが、お店で料理を食べるとき、家で作れないかと、味の分解をしながら料理を食べる。
実際に解剖しながら食べるのではなく、普通に食べながら、味覚を分解している感じだ。
だから、ぼくと料理の話を何度かしている人しか、この癖を知らない。
話を戻すと、「鶏肉のレモン炒め」を提供してくれたお店は、料理上手な家のようなお店だけあって、家庭的な作り方でできるだろうと思い、帰宅後試してみたら、これが美味かった。
妻に食べてもらったら、好物になってくれたみたいで、この夏ですでに6回は作っている。
回数が分かるのは、ちょっと歩いたところにあるスーパーで、無農薬のレモンが3個セットで売っているからだ。
 
これを冬になっても作るかと聞かれたら、それはわからない。
そのときにハマる料理って、これまでもたくさんあったからね。

迷っているだけ。

2019.8.4

「自分は何に悩んでいるのだろうか」というほど悩んでいるときがあるが、そういうときは悩んでいるのではなく、迷っているだけだ。
しかも、こういうときは、お金が絡んでいるような気がしている。
たとえば、今は「カメラにつけるレンズ」について迷っている。
カメラとレンズがセットになったレンズキットにするか、カメラと他のレンズを別々に買うか、レンズの種類をどうしようか、などで迷っている。
正直に言うと、一番贅沢な買い方をしても平気だ。
だが、通帳の残高をなるべく減らしたくない、という気持ちがブレーキを踏んでいる。
あんまりいい迷いじゃないと思いつつ、それほど安い買い物じゃないしなぁ、という気持ちもある。
いっぱい使えばいいのだが、果たしてそれもどうだろうか。
いや、これは使うだろうな。
だから、買っちまえ、というのはある。
答えは分かっているんだよな。
うーん、とりあえず、日曜日は出荷しないから、月曜日を期限にしよう。