Archive for 2015

今、ここ。

2015.5.2

この地球の中に生きていて、ただ呆然と空を眺めて生きていることの方が正しいことのような気がした。義務や使命とかではなくて、地球が作りだす自然に心を左右される気持ちの方が、この星に生まれた生命の本分のような気がしたのだ。
 
朝の運動の最後、いつもの木の場所に久し振りに行き、木に両手をついて「ただいま」と言った。右に目をやると子ども用のサッカーボールがあり、空気がパンパンに入っていた。ボールを蹴るのはもう何年振りだろうか。ボールを蹴ることを忘れた足になっていることを自分でもわかる。ドリブルをしたり、フリーキックをしている内に足が昔の感覚を思い出していくのだが、それは戻っていくのとは違い、30歳を超えた身体に当てはめていくような感覚だ。
 
今の感覚。空を眺めても、病院から眺めるものとは違う。俺には、今、ここ、という感覚があるのだ。

自由を思い出す。

2015.4.29

引き続き、家の掃除を続けている。棚の段が低くなったり、空いたスペースに物を下げるなどし、家の天井が高くなったかのようだ。
 
本当に、作品と機材と資料しか置いていない家になっている。
 
過去の人達の思い出もほとんどなくなっていき、部屋が記憶喪失をしていくかのような気分にさえなる。俺達が望んだことであるし、俺達の中に人はいない。
 
押入れに丁寧に入れていた「The 30years work.」を引っ張りだして見ると、身体中の創造性という細胞が起きてくる。あぁ、これだ。この感覚が俺を何度でも自由にさせてくれる。俺達は藝術の女神、ただ一人に魅入られたんだった。これは30歳の時の作品で、今の俺達がつくれば、また変わってくる。
 
何で絵を描いていたのか、何で写真を撮っていたのか、あぁそうだ。自由のためだ。

初めてのこと。

2015.4.26

友達の誕生日会に行き、生まれて初めて餅をついた。つきたての餅は食べたことがあったが、自分がつくことは初めてだったので、気持ちが高揚した。どんなことでも「初めてのこと」というのは、「失敗したら嫌だな」という不安と、「知らないことを経験できる」わくわくが交わるだろう。だが、大抵のことは、不安よりもわくわくを優先させた方が、結果として良い方向に向かう。それは、遊びでもビジネスでも同じことだ。昨日は、完全に遊びであり、一種、童心にかえることができる楽しさがあった。

悲しみではなく、安らぎのある日々。

2015.4.25

「あの時から単純に死にたがっていたんだ」ということに気がついた。木々があり、陽の差し込む大地の上に立ったあの時に、既に俺の人生は終っていたのだ。その命を他人のために使おうとしていたのだから、命に価値を見出そうとしていたことが間違いだったのだ。
 
命は自分だけのものであり、天に預けている限り、俺は自由だった。それが、社会という集合体に命を預けようとしていたのだから、甚だ無責任な話だったのだ。命は俺のもの。そして、終わるタイミングは天が教えていたのだった。
 
天の声を聞け、体に耳を澄ませろ。必要なことはいつも気付いていた。

物の多さ。

2015.4.20

久し振りに本当の休みを1日だけ手に入れた。
 
外は生憎の雨であり、家でいらないものの処分を進めることにした。本や雑誌はスキャン業者に依頼したのだが、それでも、数十冊は手元に残ってしまうのだから人は物を持ち過ぎているということが身に滲みる。
 
新居も、作品が入るかどうかで選んでおり、なかなか決まらないのも、それが理由になってしまっている。つまり、物だ。
 
僕らはこいつとともに生き、そして死んでいくのだと、再認する。