Archive for 2013.4

白盤

2013.4.20

昨日、更新しました。
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光明(基礎をしていたご褒美)

2013.4.20

狩野探幽さんの「雲龍図」を模写していて、「日本画はディフォルメだよな」と再認。もちろん良い意味であり、(西洋画の言葉を借りるが)ミメーシス(再現模写)の中の仮象を高めることで真実に辿り着く領域が日本画だ。炎、雲、山々、家屋のサイズ感は西洋画では無理なものであり、僕が写真において求めていた真実でもある。なぜ、技法が写真か――「しっくりくる」から、それ以外にはない。なぜ、デザインをするのか――「全てを活かすために必要」だから。
 

 
そして、光明が差した! きらーん!!
日本画→デフォルメ→崩し→僕に必要だった部分
 

 
「将来どうなりたい?」という質問がしっくりこない。経歴をみたらそうだよね、と思わなくともないけれども、職業名を1つに絞るのが鎖国的というのはいつも話ているので割愛(「どうありたい?」の方が重要だと思うし)。
 
ただ、「日本の文化レベルを上げたい」というのはやりたいことだ。ギャラリー展示での販売物の内容から逮捕されちゃうようなことが起きるのは、先進国の文化レベルとして恥ずかしいことである。判断が幼稚としか言いようがない。
 
日本に居続けている理由も文化レベルを上げたいからだったが、文化財に触れて育たなければ、それを理解するのは難しいことなのかもしれない。ジャンルが分断されていることは議論ができないことに繋がり、議論が出来ないことは会話が成り立たないことに繋がるんだけどな。ここに危機感を抱かない人が多い気がしている。会話を舐めているというか。
 

 
模写やデッサンの大切さを話していると「画家になるんですか?」と質問を受けるが、こういう馬鹿はもう放っておこうと思った。門外漢だったり、子どもだったら説明することが重要だけれども、一応、クリエイティブって呼ばれている同業に言われるとねぇ……。でも、説明しちゃうんだよなぁ、損な性格だとつくづく思う。いや、希望は捨てちゃいかんよね。希望がない人生は、礼節を欠く。

弱点

2013.4.19

久し振りにGペンを使っていたら、筆やペンタブとは違う緊張感があって興奮。同時に腕から手、指にかけて痛くなる部分も違うことが判明。昔使っていたときは力任せだったことを思い出した。
 

 
まだやれるし、いつも自分の足で立たなきゃいけないこともわかっている。しかし、今必要なのは基盤。境界線を引くための基盤。
 
動く上で「境界線」はとても大切になる。野球でいえばストライクとボールの境界線、バスケでいえばファールになるかならないかの境界線。僕らがやっているのは人間の価値観を相手にしている。同様に、先のスポーツにおける境界線も審判によるところが大きい。つまり、人間の価値観の上で境界線を引くことが重要になる。
 
野球でもアウト(成果)をとるためにボール球が必要になったり、バスケでも勝つためにファールをすることがある。それもこれも、境界線が引けているから出来ることだ。
 
写真やビジュアルにおいては、この境界線を持っている。だが、デザインにおいてはまだ明確な境界線を引けていない。
 
これが僕の弱点になっている。
 
もっともっと速度を高めて経験を積む必要がある。あともうちょっとで引けそうなんだけどなぁ。そして、境界線が明確になったときの化け方も、とんでもないことになると確信がある。

雑記

2013.4.18

『ミッドナイト・イン・パリ』(監督:ウディ・アレン)を先日観ていたのだが、数年前だったらこの映画の良さはわからなかっただろうな。今を生きるための人生讃歌。希望があるよね。
 

 
それと並行してか、文明じゃないところでの人間の幸せを考えている。機械文明はこれからも発展していくけれども、その速度に合わせて追いかけっこをしていたら、疲れるだけだと思っている。それは機械技術を発明する人と、受け取る側の違いであり、技術を発明・進化させていくのは楽しいことだろう。
 
でも、受け手であれば、あっちに乗って、こっちに乗ってを繰り返すのだから、振り回されるだけだ。
 
この構図は変わらない。だから、発明者と受け手の間に入る広告者が、騙すようなものを作るのではなく、受け手が自分で乗ることを選べる(自立して考える)広告が必要なんじゃないだろうか。自身も受け手として。
 
それは、今あるような「瞬発力勝負」の広告じゃない。企業にとっては嫌なことかもしれないけれど。時間が掛かっても、徐々に育っていくものだと思う。
 

 
「写真」が「真実を写す」なんて嘘だ、とさんざん言ってきたが、ふと「真実を写すかもな」と思っちゃいました。むか〜し、むかし、「人間の視覚媒体を利用せざるを得ない美術は、最高の対人兵器になる」と信じていた頃のような(今はそんなことしたくないよ)、信じることが出来ちゃったような感じがしました。
 
仮象も真実らしさも、真実になり得る。一位競争にそれはなく、争いにそれはなく、騙すような広告にもなく、前提の話しかしない現代美術にもそれはなく、人間の幸せにそれはある。そんな感じが掴めそうだ。
 
「おぉ! それいいじゃん!」、「いや〜、それはダメでしょ」でも言葉がわからない外国人とビジネスができる感覚、名前も国籍もわからん人とでも楽しくお酒を呑める感覚——表面的ではなく——心臓を描けば弱いが、心臓を撮れば強い、みたいな。からあげを出せば、どの国の人も「美味い」と言ってくれるみたいな。
 
けっこう、アカデミックな内容なんだけど、柔らかくしすぎた。
 

 
それにしても、風が強い日が多すぎない? 春ってこんなんだっけ?

雑記

2013.4.17

ボストンのニュースを見ていた。なぜ爆破をするのだろうか。なぜ子どもを巻き込むのだろうか。復讐だけはして欲しくない。何も出来ない自分が歯痒い。
 

 
メディアを否定するのではないが、メディアに固執するのはいかがなものかと思う。
 
電脳化やホログラムは空想のものではなくなり、将来的に実現可能な技術になっている。紙は遺産として残るかもしれないが、生活のほとんどから紙もWebも姿を消すだろう。しかし、既存メディアで培われた技術は応用できるはずだ。Web技術であればレスポンシブは必須になるだろうし、使用する人間の視覚は変わらないので、紙でもWebでも培われた美しく組む技術や魅せることは必要になる。
 

 
日本の職業名としてのアートディレクターやクリエイティブディレクターに疑問を持っている。一神教の国じゃないんだから、一語に集約しなくてもいいはずで、むしろ一神教圏だった先進諸国の方が様々な職業名を持つことが普通になっている。それで、いいと思うんだけどね。人間って一側面から説明できないでしょ。
 

 
出身畑を気にするのも同じだよね。