Archive for 2013.3

自信が柔らかくする

2013.3.6

高圧的な態度を取っている人と出会うと、「こうはなっちゃいけないな」と思う。まだまだ20代も前半なりの頃は、僕も高圧的であったと思う(反省)。そんな自戒の意味も込めて、なぜ、上からも横からも雁字搦め(がんじがらめ)に強制しようとするのだろうか、と以前考えてみたことがある。自分も含め、大抵、そのようなことをした人からパターンを考えてみると、1つの共通項が見つかる。
 
100%のルールはないことを忘れている。
 
これを忘れなければ、どんなに馬鹿と思われる年上だろうが、クソ生意気な年下だったり、経験不足だったりしても、もしかしたら光明差す答えや考えを提示された場合に「いいね!」と乗っかることが出来る。もちろん、ある程度の修正は必要だろうが、完全否定はできないものだ。
 
しかし、そのような妥当性の高い、利益にも繋がるような答えのヒントが提示されても否定してしまう場合は、自分が培ってきたルールに縛られていることが多い。(Photoshopの話になってしまうが)同じ絵が手に入るのならば、レベル補正を使おうが、トーンカーブを使おうが、どちらでも構わない。結果が伴えば何でも良い。同じ密度でもっと速いものがあるのなら、作業が終った後の飲み会か何かで酒の肴として会話をすれば良い。
 
誰もが子どもの頃は正面から見ることしか出来なかったはずだ。その後、横から見たり、後ろから、下から、斜めから、そして上から見ることを手に入れ、日本社会の仕組みを知っていくと徐々に言動は上からと斜めからになるか、後ろからと下からという傾向が強くなっていく。けれども、人に響くのは正面から行われる言動なのだ。
 
正面での言動はラクだ。他者を恐れずに自分を信じれば、頭も体も柔らかくなり、言動はシンプルになる。言葉は感情論になりやすいが、感情で嘘をつくことは出来ず、結果、他者を裏切ることがなくなる。スキルや経験や知識よりも、裏切らない人ほど信頼出来るものはない。頭も体も柔らかいのだから、高圧的であることもないし、裏返せば、自信がなく正面から動けなければ、下手(したて)に出ようが裏切ることをしやすいということだ。
 
僕がどんな相手や場面でも同じように正直に話をするのは、このような理由からである。良いやり方だと思うんだけどな〜。

白盤更新

2013.3.5

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回復力

2013.3.5

最近、「回復力」が大切だと思っている。体力や免疫力という言葉があるけれど、その大元になるようなものが回復力のような気がしている。
 
制作や運動をすると、体にはダメージが蓄積される。制作でベストパフォーマンスを発揮するために体重を維持し、体をつくるために運動をするのだが、結果として栄養障害に入る体重になる。それは確実に体を損傷し、体が傷ついた状態であれば心もやられはじめ、幼稚さが勝てば心に棘が増えてしまう。
 
そうならないために、傷ついた状態から健康な状態に引き戻す力が「回復力」である。そして、運動量が過去最高に増えている最近では、運動後に飯を食べたら、そのまま眠ってしまうようにしている。正確には「体が眠りを求めている」ので、そのまま抵抗せずに眠ってしまっているのが正直なところだ。
 
たとえて言うなら、回復力とは「バネ」だ。僕も含め、昭和の方々にはスプリングと言った方がいいかもしれない。本来は押された力からビヨ〜ンと元の位置よりも高く上がって元の位置に戻るはずが、回復力が低ければバネは馬鹿になり、そういったことが出来なくなる。それと同じような状態が、今の日本や世界が抱く不況や不安だろう。特に日本の場合、バブル崩壊後の長く続く不況感で「精神のバネ」が馬鹿になり、ちょっと良い兆しが見えても揶揄することが当り前になっている。これを先の回復力に当てはめると、精神の回復力が低下している状態であり、心が刺々しい状態である。
 
もうお分かりだろうが、そんな状態では他人を信じることも出来ず、会う人間すべてを敵にしてしまう。揶揄や馬鹿にするというのは、そんな心の働きのような気がする。こんな状況を世界が、日本が打破するには、一人一人の回復力を高めることが必要だと思う。

問題解決法

2013.3.4

僕は色んな人と会うけれど、毎回同じような話ばかりしている。ほとんどの場合は、お相手の方から話を伺って反応をするような流れだが、相手が問題を抱えていてもそうでなくても、順を追って話を進めるということをしちゃっている。
 
問題が解決出来ずに悩み続けてしまう場合、どこから手を付けて良いか分からないということがある。けれども大抵は、問題を大きく作り上げていたり、自分を良く見せようとしすぎている場合に、手の付けどころがわからないということが起きる。
 
それを僕は大学受験で知った。
 
現役時代、僕が書いた答案は全て正しいと思い込み、「俺は天才だ!」と豪語していた。恥ずかしながら、僕らの高校は偏差値30~40台程度の公立高校で、僕も例外ではなかった。その事実に目を伏せていた。つまり、良く見せるということをしていたわけだ。そんな状態で問題に挑んでいたのだから解答できているはずもなく、心理学を学ぶためには浪人をしなければならない羽目になった。
 
その後の怒濤の勉強漬けはよく話していることなので割愛するが、現役時代と同じ大学を受験したら、「何が分かるか、何が分からないか」が分かるようになり、分かるものから順を追って解いていくと、最初は「分からない」と判断された問題も解けている(正解している)ということが起きている。
 
問題を俯瞰し、細分化し、また俯瞰していると個々の問題が繋がっていることに気付き、問題制作者の気持ちになっていることもあった。その動きを人と会話をしている時にもしているのだが、「エグチさんと話していると気持ちがいい」と度々誉めてもらえるのは、相手の気持ちを考慮しながら、その問題や会話内容を向上させたい(試験に合格したい)という想いがあるからだろう。
 
そして、試験に試験時間があったように、会話にも時間があり、人が生きられる時間も制限されていることを理解しているから、その時間内で成果を出したくなるのだ。人の命の時間の短さは、嫌というほど知っている。後悔をしていたら、笑って死ねないでしょうに。やっぱりね、最期は笑って死にたいよね。

当然だよね

2013.3.3

頻繁に色んな人に話しているが、何かに迷った時に行動を決める指針は「いま死んで満足できるか?」ということ。もう少し緩く言うと「死ぬ瞬間、笑っていたい」や「笑って死にたい」だ。
 
こんなご時世だからと、自分の魂に嘘をついて今日の(自分だけの)飯を手に入れたときには、どんな人でも心の隅に黒い靄(もや)が立つだろう。けれども、人はいつ死ぬか分からない。もしも、心の隅に黒い靄が立っている時にその瞬間が訪れたら、必ず表情は辛いものになる。
 
僕が笑顔で自分の気持ちを正直に話しているのは、そんな理由からであり、今では当り前になってしまって、わざわざ理由として上げなくてもいいようになってしまった。でもね、笑顔で人と話していると、相手も笑顔になっていたりするから不思議だ。